検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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投擲体

第十話 投擲体

夜明けは、

何も解決しなかった。

 

光が差したところで、

川は浅いまま、

向こう岸は静まり返ったまま、

投げられたそれも、

そこに横たわったままだった。

 

人の身体は、

軽くはない。

 

それを投げた、

という事実がまず異常だった。

 

「……」

 

イェルグは、

川辺にしゃがみ込み、

遺体を見下ろした。

 

成人男性。

年齢は、

四十前後。

 

筋肉の付き方からして、

農作業に従事していた可能性が高い。

手のひらには、

長年の摩耗。

 

投げられる直前まで、

生きていたかどうか。

 

そこから、

仕事が始まる。

 

「……触れて、

 いいですか」

 

ルーネの声は、

低かった。

 

もう、

吐き気はない。

 

その代わり、

覚悟が混じっている。

 

「ええ」

 

イェルグは、

短く答えた。

 

「ですが、

 川側から」

 

理由は、

言わなかった。

 

だが、

ルーネは従った。

 

淡水に触れていた側の、

皮膚。

 

そこは、

異様だった。

 

「……ただれて……」

 

「いいえ」

 

イェルグは、

訂正する。

 

「“溶けた”のではない」

 

指先で、

皮膚の縁を示す。

 

「拒絶反応です」

 

「……水に?」

 

「ええ」

 

「でも……

 普通の……」

 

「普通の皮膚なら、

 そうです」

 

イェルグは、

一度立ち上がり、

全体を見渡した。

 

遺体の中心部、

胸、腹、喉。

 

そこには、

決定的な外傷がない。

 

「……息、

 ですね」

 

ルーネが、

静かに言った。

 

「ええ」

 

イェルグは、

布をめくる。

 

胸郭を、

慎重に開く。

 

内側は、

まだ温度を保っていた。

 

死後、

それほど時間が経っていない。

 

「……肺が……」

 

ルーネの声が、

掠れる。

 

昨日見たものより、

ひどい。

 

膜は厚く、

色は濃く。

 

「吸わされています」

 

「……長く……」

 

「ええ」

 

イェルグは、

一つ、

小さく息を吐いた。

 

「投げられた、

 というより……」

 

言葉を、

選ぶ。

 

「“返された”

 のでしょう」

 

ルーネは、

何も言えなかった。

 

村人が、

川向こうでこれを見つけ、

恐れ、

祈り、

考え、

そして。

 

境界へ、

投げた。

 

「……淡水に触れれば、

 安全だと……」

 

「ええ」

 

「それで……」

 

「境界を、

 使った」

 

イェルグの声は、

責める色を持たない。

 

ただ、

事実だった。

 

「……この人は……」

 

ルーネは、

遺体の顔を見る。

 

目は、

閉じられている。

 

だが、

その周囲の皮膚が、

引き攣っている。

 

「……苦しんだ、

 んでしょうか」

 

イェルグは、

少しだけ考えた。

 

「ええ」

 

否定しなかった。

 

「ヌックの息は、

 即死ではありません」

 

「……」

 

「理解する時間が、

 あります」

 

それは、

残酷な特徴だった。

 

ルーネの手が、

わずかに震えた。

 

「……書きます」

 

「ええ」

 

「全部……」

 

「事実だけを」

 

「……はい」

 

帳面に、

文字が落ちる。

 

淡水反応、

肺膜の厚み、

死後経過。

 

だが、

書かれないことも、

確かにあった。

 

投げた人間の、

恐怖。

 

川を、

救済として使った判断。

 

「……教会は……」

 

ルーネが、

小さく言う。

 

「この死を……」

 

「祈りで、

 包むでしょう」

 

イェルグは、

淡々と答えた。

 

「ですが」

 

遺体に、

布をかける。

 

「ヌックは、

 学びます」

 

「……何を」

 

「境界が、

 “使われる”

 ということを」

 

川は、

静かだった。

 

水位は、

さらに下がっている。

 

「……次は……」

 

ルーネの声が、

かすれる。

 

「越えますか」

 

イェルグは、

答えなかった。

 

ただ、

川を見つめていた。

 

淡水は、

まだ、

境界だった。

 

だが、

境界は。

 

人が、

何度も頼れば、

やがて。

 

意味を、

失う。

 

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