第百十話 記録と、始まり
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■ 教会提出用・事案処理報告書(抄)
件名:辺境第七管区・音響性怪異沈静化後の二次事故について
担当検死官:イェルグ・ハルヴァン
補助検死官:ルーネ・ブルース
処理区分:完了
危険度評価:低
教義抵触:なし
概要
当該村落にて発生していた音響性怪異は、所定の手順に従い沈静化を確認。
怪異由来の直接的被害は発生せず、住民の精神状態も概ね安定している。
ただし、沈静化後三日目の夜間、住民一名が事故死。
本件については怪異との因果関係は認められず、通常事故として処理した。
事故概要
被害者:成人男性一名(35歳)
死亡時刻:夜間(推定)
死亡原因:高所からの転落による頭部損傷
第三者関与:なし
自殺の兆候:なし
怪異反応:検出されず
結論
本件は怪異処理後に発生した、偶発的事故である。
事案全体としては、人的被害を最小限に抑えた成功例と判断する。
——以上
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■ 検死報告書(簡略)
検死官:イェルグ・ハルヴァン
立会:ルーネ・ブルース
• 頭蓋骨骨折
• 側頭部打撲による即死
• 防御創なし
• 争った痕跡なし
• 体内アルコール反応なし
• 怪異性残滓:検出されず
死因確定:事故死
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報告書は、きれいだった。
紙面の上では、何も問題が起きていない。
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本文
村は静かだった。
怪異がいた頃よりも、ずっと。
耳を澄ましても、聞こえるのは風と、遠くの家畜の鳴き声だけだ。
「……終わったな」
イェルグはそう言って、書類を閉じた。
声に感慨はない。ただの事実確認のような調子だった。
ルーネは頷いた。
頷いたはずだったが、首の動きが少し遅れた。
「被害、最小でしたね」
言葉にすると、少しだけ軽くなる。
そう信じたかった。
「被害ゼロだ」
イェルグは訂正する。
「怪異による、な」
その“な”が、机の上に落ちた。
ルーネは、視線を外に向ける。
村の中央を通る道。昼間は人が行き交い、夜は真っ暗になる。
あの男が落ちたのは、あの先の納屋だった。
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三日前
音の怪異は、すでに“穏やか”だった。
誰かを呼ぶ声もない。
生活音を真似るだけの、薄い残響。
「管理でいける」
そう判断したのは、ルーネだった。
「遮断は要らないと思います。
一人に集中させるより、村全体で……薄く」
イェルグは、そのとき何も言わなかった。
否定もしなかったし、肯定もしなかった。
ただ一度だけ、確認した。
「前の件と、同じだと思ってるか」
「……完全に、同じじゃないですけど」
「似てる、で判断するな」
それだけだった。
ルーネは、聞いた。
そして――聞いたつもりになった。
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村人たちは協力的だった。
「何もしなくていいんですね」
「近づきすぎなければ」
「声をかけなければ」
指示は簡単だった。
簡単すぎるくらいに。
怪異は、夜になると音を返した。
戸の軋み。
歩く音。
誰かが家の中で動いているような気配。
でも、誰も返事をしなかった。
返事をする必要が、なかった。
――はずだった。
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事故が起きた夜。
風が強かった。
納屋の屋根が、少しずれていた。
男は、修理に上った。
一人だった。
誰も呼ばなかった。
足を滑らせた理由は、分からない。
ただ、落ちた。
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検死台の上で、男は静かだった。
「……怪異反応、なし」
ルーネが言う。
イェルグは頷く。
「事故だ」
それ以上でも、それ以下でもない。
ルーネは、胸の奥で何かを探した。
理由か、言い訳か、違和感か。
どれも、見つからなかった。
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報告書を書き終えたあと、イェルグが言った。
「これは失敗じゃない」
ルーネは、少し救われた気がした。
「副作用だ」
その言葉が、遅れて刺さった。
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今日は、静かだ。
村も。
夜も。
書類の上も。
そして――
ルーネの中も、まだ静かだった。