検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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記録と、始まり

第百十話 記録と、始まり

 

 

■ 教会提出用・事案処理報告書(抄)

 

件名:辺境第七管区・音響性怪異沈静化後の二次事故について

担当検死官:イェルグ・ハルヴァン

補助検死官:ルーネ・ブルース

処理区分:完了

危険度評価:低

教義抵触:なし

 

概要

当該村落にて発生していた音響性怪異は、所定の手順に従い沈静化を確認。

怪異由来の直接的被害は発生せず、住民の精神状態も概ね安定している。

 

ただし、沈静化後三日目の夜間、住民一名が事故死。

本件については怪異との因果関係は認められず、通常事故として処理した。

 

事故概要

被害者:成人男性一名(35歳)

死亡時刻:夜間(推定)

死亡原因:高所からの転落による頭部損傷

第三者関与:なし

自殺の兆候:なし

怪異反応:検出されず

 

結論

本件は怪異処理後に発生した、偶発的事故である。

事案全体としては、人的被害を最小限に抑えた成功例と判断する。

 

——以上

 

 

■ 検死報告書(簡略)

 

検死官:イェルグ・ハルヴァン

立会:ルーネ・ブルース

• 頭蓋骨骨折

• 側頭部打撲による即死

• 防御創なし

• 争った痕跡なし

• 体内アルコール反応なし

• 怪異性残滓:検出されず

 

死因確定:事故死

 

 

報告書は、きれいだった。

紙面の上では、何も問題が起きていない。

 

 

本文

 

村は静かだった。

 

怪異がいた頃よりも、ずっと。

耳を澄ましても、聞こえるのは風と、遠くの家畜の鳴き声だけだ。

 

「……終わったな」

 

イェルグはそう言って、書類を閉じた。

声に感慨はない。ただの事実確認のような調子だった。

 

ルーネは頷いた。

頷いたはずだったが、首の動きが少し遅れた。

 

「被害、最小でしたね」

 

言葉にすると、少しだけ軽くなる。

そう信じたかった。

 

「被害ゼロだ」

 

イェルグは訂正する。

「怪異による、な」

 

その“な”が、机の上に落ちた。

 

ルーネは、視線を外に向ける。

村の中央を通る道。昼間は人が行き交い、夜は真っ暗になる。

 

あの男が落ちたのは、あの先の納屋だった。

 

 

三日前

 

音の怪異は、すでに“穏やか”だった。

 

誰かを呼ぶ声もない。

生活音を真似るだけの、薄い残響。

 

「管理でいける」

 

そう判断したのは、ルーネだった。

 

「遮断は要らないと思います。

 一人に集中させるより、村全体で……薄く」

 

イェルグは、そのとき何も言わなかった。

否定もしなかったし、肯定もしなかった。

 

ただ一度だけ、確認した。

 

「前の件と、同じだと思ってるか」

 

「……完全に、同じじゃないですけど」

 

「似てる、で判断するな」

 

それだけだった。

 

ルーネは、聞いた。

そして――聞いたつもりになった。

 

 

村人たちは協力的だった。

 

「何もしなくていいんですね」

「近づきすぎなければ」

「声をかけなければ」

 

指示は簡単だった。

簡単すぎるくらいに。

 

怪異は、夜になると音を返した。

戸の軋み。

歩く音。

誰かが家の中で動いているような気配。

 

でも、誰も返事をしなかった。

返事をする必要が、なかった。

 

――はずだった。

 

 

事故が起きた夜。

 

風が強かった。

納屋の屋根が、少しずれていた。

 

男は、修理に上った。

一人だった。

誰も呼ばなかった。

 

足を滑らせた理由は、分からない。

 

ただ、落ちた。

 

 

検死台の上で、男は静かだった。

 

「……怪異反応、なし」

 

ルーネが言う。

 

イェルグは頷く。

 

「事故だ」

 

それ以上でも、それ以下でもない。

 

ルーネは、胸の奥で何かを探した。

理由か、言い訳か、違和感か。

 

どれも、見つからなかった。

 

 

報告書を書き終えたあと、イェルグが言った。

 

「これは失敗じゃない」

 

ルーネは、少し救われた気がした。

 

「副作用だ」

 

その言葉が、遅れて刺さった。

 

 

今日は、静かだ。

 

村も。

夜も。

書類の上も。

 

そして――

ルーネの中も、まだ静かだった。

 

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