第百十一話 残った人たち
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男の家は、村の端にあった。
畑に近く、夜になると風の音がよく通る。
怪異がいた頃、その家は比較的静かだったと聞いている。
「影響、軽微」
報告書にはそう書かれていた。
事実でもあった。
妻は生きている。
子供もいる。
泣き崩れも、錯乱も、起きていない。
だから――問題は、ないはずだった。
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「どうぞ」
扉を開けた妻は、きちんと二人を迎え入れた。
目は赤いが、腫れてはいない。
「検死官さんですよね。
……わざわざ、ありがとうございます」
声は落ち着いている。
丁寧で、よく通る。
イェルグは短く頷いた。
「形式だ」
それだけ言って、室内に入る。
ルーネは、妻の様子を見た。
背筋が伸びている。
動作に無駄がない。
――ちゃんと、している。
それが、妙に引っかかった。
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「ご不便はありませんか」
ルーネが尋ねる。
「いいえ」
即答だった。
「村の人も手伝ってくれますし。
畑も……まあ、何とかなります」
“何とかなります”。
その言い方に、温度がない。
「夜は、眠れていますか」
「ええ」
少し間があって、続く。
「よく眠れます」
それは、少しだけ意外だった。
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子供は、奥の部屋にいた。
七つか、八つ。
年の割に、静かだ。
「こんにちは」
ルーネが声をかける。
子供は顔を上げ、じっとこちらを見る。
「……こんにちは」
返事はある。
遅くもない。
普通だ。
「お父さんのこと、覚えてる?」
一瞬、空気が止まった。
妻が何か言おうとして、やめる。
子供は首を傾げた。
「……いた、よね」
「いたよ」
妻がすぐに補足する。
「屋根、直してくれてた」
「そうそう」
子供は納得したように頷く。
「屋根の人」
その言葉が、胸に引っかかる。
名前じゃない。
役割だ。
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「怪異の影響は?」
イェルグが淡々と尋ねる。
「ありません」
妻ははっきり言った。
「音も、今は何も聞こえません。
……静かです」
「それで困ることは」
「いいえ」
困っていない。
困っていない、と言っている。
それ以上、掘り下げる理由はなかった。
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外に出ると、ルーネは息を吐いた。
「……落ち着いてますね」
「生きてる」
イェルグはそれだけ言った。
「混乱もない。衰弱もない。
発狂もしてない」
確認するような口調。
「成功例だ」
成功。
その言葉が、喉に残る。
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村を歩く。
人々は日常に戻っている。
畑を耕し、家畜に餌をやり、洗濯物を干す。
誰も泣いていない。
誰も叫んでいない。
だから――大丈夫、のはずだった。
「……先生」
ルーネが呼ぶ。
「何だ」
「さっきの子、
ちょっと……」
言葉を探す。
「……落ち着きすぎてませんでした?」
イェルグは歩みを止めない。
「そうかもしれないな」
「だが」
「死体になってない」
その一言で、会話は終わった。
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夜。
宿で、ルーネは書類を見返していた。
「後遺症なし」
自分で書いた文字。
間違ってはいない。
検出されていない。
数値にも、反応にも、異常はない。
それでも。
――“屋根の人”。
名前が、落ちている。
でもそれは、検死の範疇じゃない。
「……考えすぎか」
小さく呟く。
返事はない。
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翌朝、村を出る。
妻は丁寧に礼を言った。
「助かりました」
その言葉に、嘘はない。
ルーネは頷いた。
「お大事に」
何を大事にするのか、分からないまま。
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道を離れてから、イェルグが言った。
「お前、何か引っかかってるな」
ルーネは一瞬、驚いた。
「……分かります?」
「顔に出る」
「でも、証拠がなくて」
「なら、それは今は関係ない」
イェルグは淡々と言う。
「仕事は終わってる」
正しい。
正しすぎる。
ルーネは、それ以上、何も言わなかった。
――何も言わないことが、
まだ重くならない段階だったから。