検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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残った人たち

第百十一話 残った人たち

 

 

男の家は、村の端にあった。

 

畑に近く、夜になると風の音がよく通る。

怪異がいた頃、その家は比較的静かだったと聞いている。

 

「影響、軽微」

 

報告書にはそう書かれていた。

 

事実でもあった。

 

妻は生きている。

子供もいる。

泣き崩れも、錯乱も、起きていない。

 

だから――問題は、ないはずだった。

 

 

「どうぞ」

 

扉を開けた妻は、きちんと二人を迎え入れた。

目は赤いが、腫れてはいない。

 

「検死官さんですよね。

 ……わざわざ、ありがとうございます」

 

声は落ち着いている。

丁寧で、よく通る。

 

イェルグは短く頷いた。

 

「形式だ」

 

それだけ言って、室内に入る。

 

ルーネは、妻の様子を見た。

背筋が伸びている。

動作に無駄がない。

 

――ちゃんと、している。

 

それが、妙に引っかかった。

 

 

「ご不便はありませんか」

 

ルーネが尋ねる。

 

「いいえ」

 

即答だった。

 

「村の人も手伝ってくれますし。

 畑も……まあ、何とかなります」

 

“何とかなります”。

 

その言い方に、温度がない。

 

「夜は、眠れていますか」

 

「ええ」

 

少し間があって、続く。

 

「よく眠れます」

 

それは、少しだけ意外だった。

 

 

子供は、奥の部屋にいた。

 

七つか、八つ。

年の割に、静かだ。

 

「こんにちは」

 

ルーネが声をかける。

 

子供は顔を上げ、じっとこちらを見る。

 

「……こんにちは」

 

返事はある。

遅くもない。

 

普通だ。

 

「お父さんのこと、覚えてる?」

 

一瞬、空気が止まった。

 

妻が何か言おうとして、やめる。

 

子供は首を傾げた。

 

「……いた、よね」

 

「いたよ」

 

妻がすぐに補足する。

 

「屋根、直してくれてた」

 

「そうそう」

 

子供は納得したように頷く。

 

「屋根の人」

 

その言葉が、胸に引っかかる。

 

名前じゃない。

役割だ。

 

 

「怪異の影響は?」

 

イェルグが淡々と尋ねる。

 

「ありません」

 

妻ははっきり言った。

 

「音も、今は何も聞こえません。

 ……静かです」

 

「それで困ることは」

 

「いいえ」

 

困っていない。

困っていない、と言っている。

 

それ以上、掘り下げる理由はなかった。

 

 

外に出ると、ルーネは息を吐いた。

 

「……落ち着いてますね」

 

「生きてる」

 

イェルグはそれだけ言った。

 

「混乱もない。衰弱もない。

 発狂もしてない」

 

確認するような口調。

 

「成功例だ」

 

成功。

 

その言葉が、喉に残る。

 

 

村を歩く。

 

人々は日常に戻っている。

畑を耕し、家畜に餌をやり、洗濯物を干す。

 

誰も泣いていない。

誰も叫んでいない。

 

だから――大丈夫、のはずだった。

 

「……先生」

 

ルーネが呼ぶ。

 

「何だ」

 

「さっきの子、

 ちょっと……」

 

言葉を探す。

 

「……落ち着きすぎてませんでした?」

 

イェルグは歩みを止めない。

 

「そうかもしれないな」

 

「だが」

 

「死体になってない」

 

その一言で、会話は終わった。

 

 

夜。

 

宿で、ルーネは書類を見返していた。

 

「後遺症なし」

 

自分で書いた文字。

 

間違ってはいない。

検出されていない。

数値にも、反応にも、異常はない。

 

それでも。

 

――“屋根の人”。

 

名前が、落ちている。

 

でもそれは、検死の範疇じゃない。

 

「……考えすぎか」

 

小さく呟く。

 

返事はない。

 

 

翌朝、村を出る。

 

妻は丁寧に礼を言った。

 

「助かりました」

 

その言葉に、嘘はない。

 

ルーネは頷いた。

 

「お大事に」

 

何を大事にするのか、分からないまま。

 

 

道を離れてから、イェルグが言った。

 

「お前、何か引っかかってるな」

 

ルーネは一瞬、驚いた。

 

「……分かります?」

 

「顔に出る」

 

「でも、証拠がなくて」

 

「なら、それは今は関係ない」

 

イェルグは淡々と言う。

 

「仕事は終わってる」

 

正しい。

正しすぎる。

 

ルーネは、それ以上、何も言わなかった。

 

――何も言わないことが、

まだ重くならない段階だったから。

 

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