検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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残してしまったもの

第百十二話 残してしまったもの

 

⸻

 

妻は、朝になると必ず窓を開ける。

 

風を通すため。

匂いを残さないため。

そう教えられてきた。

 

夫がいた頃も、そうしていた。

 

だから今も、同じように窓を開ける。

 

何も変わらない。

変わってはいけない。

 

⸻

 

子供は、朝食の席で黙っている。

 

パンをちぎり、口に運び、噛む。

飲み込む。

 

一連の動作は正確だ。

遅れも、無駄もない。

 

「学校、行く?」

 

妻が聞く。

 

「うん」

 

即答。

 

「……友だち、待ってる?」

 

少し間があって。

 

「……たぶん」

 

“たぶん”。

 

それを、妻は聞き流す。

 

聞き返さない。

問い詰めない。

 

それが正しいと、思っている。

 

⸻

 

学校から戻った子供は、家の裏に座っていた。

 

畑と家の境目。

かつて、父がよく立っていた場所。

 

「何してるの」

 

妻が声をかける。

 

子供は地面を見つめたまま言う。

 

「……聞いてる」

 

「何を?」

 

「静かなの」

 

妻は、返す言葉を探す。

 

「……静かで、いいでしょ」

 

「うん」

 

でも、その声には喜びがない。

 

⸻

 

夜。

 

家は、本当に静かだ。

 

風の音。

虫の声。

遠くの犬。

 

それだけ。

 

妻は寝台に横になり、目を閉じる。

 

眠れる。

ちゃんと、眠れる。

 

それが救いだと思っている。

 

――思おうとしている。

 

⸻

 

隣の部屋で、子供は目を開けている。

 

天井を見ている。

 

そこに、何も映らない。

 

「……ねえ」

 

誰に向けた言葉でもない。

 

返事はない。

 

それでも、子供は続ける。

 

「……だいじょうぶ」

 

どこかで聞いた言葉。

 

意味は分からない。

でも、口にすると落ち着く。

 

その言葉は、父の声ではない。

 

それでも――

父がいなくなった後、

家に残った唯一の“音”だった。

 

⸻

 

数日後。

 

子供は、学校で転んだ。

 

膝を擦りむき、血が出る。

 

周囲の子供が集まる。

 

「大丈夫?」

 

「痛い?」

 

その声に、子供は一瞬、硬直した。

 

それから、首を傾げる。

 

「……だいじょうぶ」

 

教師が駆け寄る。

 

「保健室に行こう」

 

「……いらない」

 

声は平坦だ。

 

感情が、動かない。

 

⸻

 

夜。

 

妻は、食器を洗いながら思う。

 

――何かがおかしい。

 

でも、何が?

 

子供は元気だ。

学校にも行く。

泣きもしない。

 

悪夢も見ていない。

 

“問題がある”兆候は、どこにもない。

 

ただ。

 

「……名前、呼ばないわね」

 

ぽつりと呟く。

 

誰の名前かは、分かっている。

 

でも、その名前を口に出すと、

何かが壊れそうで。

 

だから、言わない。

 

⸻

 

家の裏。

 

子供は、また座っている。

 

「……ここ」

 

地面に向かって言う。

 

「……いる」

 

何も返らない。

 

それでも、子供は安心する。

 

返事がないことに。

 

それは、拒絶じゃないから。

 

⸻

 

数週間後。

 

畑の手入れをしていた妻は、

鍬を落とした。

 

突然、力が抜けた。

 

息が、詰まる。

 

胸が、苦しい。

 

「……っ」

 

座り込む。

 

その瞬間、背後から声がした。

 

「……だいじょうぶ」

 

振り返る。

 

子供が立っている。

 

表情は、穏やかだ。

 

「……ねえ」

 

妻は、震える声で言う。

 

「今の、誰の声?」

 

子供は首を傾げる。

 

「……いる声」

 

「誰?」

 

少し考えて。

 

「……ここ」

 

指差したのは、

家の裏――

父が立っていた場所。

 

⸻

 

妻は、その夜、眠れなかった。

 

静かすぎる。

 

あまりにも。

 

“音”が、ない。

 

泣き声も、怒鳴り声も、

笑い声も。

 

そして――

悲しむ音も、ない。

 

⸻

 

翌朝。

 

妻は決めた。

 

「……先生に、聞いてみよう」

 

検死官。

若い方。

 

あの人なら、分かるかもしれない。

 

“後遺症なし”と書いた人。

 

⸻

 

その頃。

 

ルーネは、別の現場にいた。

 

全く別の事件。

 

別の村。

別の怪異。

 

彼は、気づいていなかった。

 

自分が、見落としたものが、

まだ動いていることに。

 

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