検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

113 / 131
残してしまったもの

第百十二話 残してしまったもの

 

 

妻は、朝になると必ず窓を開ける。

 

風を通すため。

匂いを残さないため。

そう教えられてきた。

 

夫がいた頃も、そうしていた。

 

だから今も、同じように窓を開ける。

 

何も変わらない。

変わってはいけない。

 

 

子供は、朝食の席で黙っている。

 

パンをちぎり、口に運び、噛む。

飲み込む。

 

一連の動作は正確だ。

遅れも、無駄もない。

 

「学校、行く?」

 

妻が聞く。

 

「うん」

 

即答。

 

「……友だち、待ってる?」

 

少し間があって。

 

「……たぶん」

 

“たぶん”。

 

それを、妻は聞き流す。

 

聞き返さない。

問い詰めない。

 

それが正しいと、思っている。

 

 

学校から戻った子供は、家の裏に座っていた。

 

畑と家の境目。

かつて、父がよく立っていた場所。

 

「何してるの」

 

妻が声をかける。

 

子供は地面を見つめたまま言う。

 

「……聞いてる」

 

「何を?」

 

「静かなの」

 

妻は、返す言葉を探す。

 

「……静かで、いいでしょ」

 

「うん」

 

でも、その声には喜びがない。

 

 

夜。

 

家は、本当に静かだ。

 

風の音。

虫の声。

遠くの犬。

 

それだけ。

 

妻は寝台に横になり、目を閉じる。

 

眠れる。

ちゃんと、眠れる。

 

それが救いだと思っている。

 

――思おうとしている。

 

 

隣の部屋で、子供は目を開けている。

 

天井を見ている。

 

そこに、何も映らない。

 

「……ねえ」

 

誰に向けた言葉でもない。

 

返事はない。

 

それでも、子供は続ける。

 

「……だいじょうぶ」

 

どこかで聞いた言葉。

 

意味は分からない。

でも、口にすると落ち着く。

 

その言葉は、父の声ではない。

 

それでも――

父がいなくなった後、

家に残った唯一の“音”だった。

 

 

数日後。

 

子供は、学校で転んだ。

 

膝を擦りむき、血が出る。

 

周囲の子供が集まる。

 

「大丈夫?」

 

「痛い?」

 

その声に、子供は一瞬、硬直した。

 

それから、首を傾げる。

 

「……だいじょうぶ」

 

教師が駆け寄る。

 

「保健室に行こう」

 

「……いらない」

 

声は平坦だ。

 

感情が、動かない。

 

 

夜。

 

妻は、食器を洗いながら思う。

 

――何かがおかしい。

 

でも、何が?

 

子供は元気だ。

学校にも行く。

泣きもしない。

 

悪夢も見ていない。

 

“問題がある”兆候は、どこにもない。

 

ただ。

 

「……名前、呼ばないわね」

 

ぽつりと呟く。

 

誰の名前かは、分かっている。

 

でも、その名前を口に出すと、

何かが壊れそうで。

 

だから、言わない。

 

 

家の裏。

 

子供は、また座っている。

 

「……ここ」

 

地面に向かって言う。

 

「……いる」

 

何も返らない。

 

それでも、子供は安心する。

 

返事がないことに。

 

それは、拒絶じゃないから。

 

 

数週間後。

 

畑の手入れをしていた妻は、

鍬を落とした。

 

突然、力が抜けた。

 

息が、詰まる。

 

胸が、苦しい。

 

「……っ」

 

座り込む。

 

その瞬間、背後から声がした。

 

「……だいじょうぶ」

 

振り返る。

 

子供が立っている。

 

表情は、穏やかだ。

 

「……ねえ」

 

妻は、震える声で言う。

 

「今の、誰の声?」

 

子供は首を傾げる。

 

「……いる声」

 

「誰?」

 

少し考えて。

 

「……ここ」

 

指差したのは、

家の裏――

父が立っていた場所。

 

 

妻は、その夜、眠れなかった。

 

静かすぎる。

 

あまりにも。

 

“音”が、ない。

 

泣き声も、怒鳴り声も、

笑い声も。

 

そして――

悲しむ音も、ない。

 

 

翌朝。

 

妻は決めた。

 

「……先生に、聞いてみよう」

 

検死官。

若い方。

 

あの人なら、分かるかもしれない。

 

“後遺症なし”と書いた人。

 

 

その頃。

 

ルーネは、別の現場にいた。

 

全く別の事件。

 

別の村。

別の怪異。

 

彼は、気づいていなかった。

 

自分が、見落としたものが、

まだ動いていることに。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。