第百十二話 残してしまったもの
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妻は、朝になると必ず窓を開ける。
風を通すため。
匂いを残さないため。
そう教えられてきた。
夫がいた頃も、そうしていた。
だから今も、同じように窓を開ける。
何も変わらない。
変わってはいけない。
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子供は、朝食の席で黙っている。
パンをちぎり、口に運び、噛む。
飲み込む。
一連の動作は正確だ。
遅れも、無駄もない。
「学校、行く?」
妻が聞く。
「うん」
即答。
「……友だち、待ってる?」
少し間があって。
「……たぶん」
“たぶん”。
それを、妻は聞き流す。
聞き返さない。
問い詰めない。
それが正しいと、思っている。
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学校から戻った子供は、家の裏に座っていた。
畑と家の境目。
かつて、父がよく立っていた場所。
「何してるの」
妻が声をかける。
子供は地面を見つめたまま言う。
「……聞いてる」
「何を?」
「静かなの」
妻は、返す言葉を探す。
「……静かで、いいでしょ」
「うん」
でも、その声には喜びがない。
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夜。
家は、本当に静かだ。
風の音。
虫の声。
遠くの犬。
それだけ。
妻は寝台に横になり、目を閉じる。
眠れる。
ちゃんと、眠れる。
それが救いだと思っている。
――思おうとしている。
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隣の部屋で、子供は目を開けている。
天井を見ている。
そこに、何も映らない。
「……ねえ」
誰に向けた言葉でもない。
返事はない。
それでも、子供は続ける。
「……だいじょうぶ」
どこかで聞いた言葉。
意味は分からない。
でも、口にすると落ち着く。
その言葉は、父の声ではない。
それでも――
父がいなくなった後、
家に残った唯一の“音”だった。
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数日後。
子供は、学校で転んだ。
膝を擦りむき、血が出る。
周囲の子供が集まる。
「大丈夫?」
「痛い?」
その声に、子供は一瞬、硬直した。
それから、首を傾げる。
「……だいじょうぶ」
教師が駆け寄る。
「保健室に行こう」
「……いらない」
声は平坦だ。
感情が、動かない。
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夜。
妻は、食器を洗いながら思う。
――何かがおかしい。
でも、何が?
子供は元気だ。
学校にも行く。
泣きもしない。
悪夢も見ていない。
“問題がある”兆候は、どこにもない。
ただ。
「……名前、呼ばないわね」
ぽつりと呟く。
誰の名前かは、分かっている。
でも、その名前を口に出すと、
何かが壊れそうで。
だから、言わない。
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家の裏。
子供は、また座っている。
「……ここ」
地面に向かって言う。
「……いる」
何も返らない。
それでも、子供は安心する。
返事がないことに。
それは、拒絶じゃないから。
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数週間後。
畑の手入れをしていた妻は、
鍬を落とした。
突然、力が抜けた。
息が、詰まる。
胸が、苦しい。
「……っ」
座り込む。
その瞬間、背後から声がした。
「……だいじょうぶ」
振り返る。
子供が立っている。
表情は、穏やかだ。
「……ねえ」
妻は、震える声で言う。
「今の、誰の声?」
子供は首を傾げる。
「……いる声」
「誰?」
少し考えて。
「……ここ」
指差したのは、
家の裏――
父が立っていた場所。
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妻は、その夜、眠れなかった。
静かすぎる。
あまりにも。
“音”が、ない。
泣き声も、怒鳴り声も、
笑い声も。
そして――
悲しむ音も、ない。
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翌朝。
妻は決めた。
「……先生に、聞いてみよう」
検死官。
若い方。
あの人なら、分かるかもしれない。
“後遺症なし”と書いた人。
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その頃。
ルーネは、別の現場にいた。
全く別の事件。
別の村。
別の怪異。
彼は、気づいていなかった。
自分が、見落としたものが、
まだ動いていることに。