第百十三話 事故
【教会提出用報告書 抜粋】
案件番号:C-317
発生地:南部辺境・ミルヘ村
対象:成人女性一名
状況:自宅内での突然死
外傷:なし
争った痕跡:なし
毒物反応:検出されず
怪異関与:否定
死因:急性心不全(推定)
補足:
精神的負荷の兆候あり。ただし、怪異由来の影響は確認されず。
同居家族(未成年一名)に異常なし。
後遺症、二次被害ともに認められない。
――以上。
署名:検死官 ルーネ・ブルース
確認:検死官 イェルグ・ハルヴァン
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本文
朝だった。
空気は冷えていて、
村は静かで、
“いつもの朝”だった。
ルーネは、その家の前に立っていた。
扉は開いている。
呼ばれて来たわけではない。
ただ――
「昨夜、倒れたまま動かない」と聞いただけだ。
中に入る。
生活の匂い。
昨日の夕餉。
洗いきれていない皿。
生きていた痕跡が、まだ新しい。
寝台に、女が横たわっている。
目は閉じられ、
顔は穏やかで、
苦しんだ形跡はない。
「……死斑、きれいだな」
独り言のように言う。
心不全。
珍しくない。
悲劇ではあるが、異常ではない。
――そう判断することに、何の抵抗もなかった。
問題は、子供だった。
寝台の傍に座り、
母の手を握っている。
泣いていない。
震えてもいない。
ただ、じっと見ている。
「……お母さんは、亡くなっています」
ルーネは、淡々と告げた。
言葉を選ばなかった。
選ぶ必要がないと、思った。
子供は、首を傾げた。
「……いるよ」
「いません」
即答だった。
その瞬間、
空気が、わずかに揺れた。
ルーネは、気づかなかった。
「もう、返事はありません」
それは、検死官として正しい説明だった。
正しすぎた。
子供の目が、初めて揺れる。
「……でも」
「錯覚です」
切り捨てる。
「悲しみが、そう感じさせている」
それは、教会で教わった“正しい言葉”。
怪異を否定し、
迷信を断ち、
人を現実に戻すための言葉。
「……違う」
小さな声。
「……呼んでた」
「誰も、呼んでいません」
ルーネは、きっぱり言った。
ここで、終わらせるべきだった。
沈黙すべきだった。
でも、彼は続けた。
「静かだったでしょう?」
その言葉が、
刃になった。
子供の顔が、凍る。
静か。
そう、静かだった。
――あの夜。
母が、胸を押さえて倒れた時。
子供は、声を出さなかった。
出せなかった。
なぜなら、
「静かにしていれば、いる」
と、どこかで学んでしまっていたから。
「……でも」
子供が、言う。
「……なにもしなかった」
ルーネは、頷いた。
「それでいい」
それが、致命傷だった。
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その日の夜。
子供は、一人で寝台に入った。
母はいない。
返事は、ない。
でも――
“静かにしていれば、いる”。
その論理だけが、残った。
布団を被る。
息を殺す。
声を出さない。
完璧に。
時間が、過ぎる。
誰も、来ない。
呼吸が、浅くなる。
苦しい。
でも、音を立ててはいけない。
――静かに。
静かに。
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翌朝。
子供は、冷たくなって見つかった。
外傷なし。
争いなし。
死因:呼吸停止。
「……事故だな」
そう言ったのは、
ルーネ自身だった。
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イェルグは、何も言わなかった。
報告書に、修正も入れなかった。
教会は、満足した。
二人分の死体。
原因不明ではない。
怪異関与なし。
綺麗な事件だった。
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その夜。
ルーネは、眠れなかった。
でも、自分がおかしいとは思っていない。
むしろ、
“正しく処理した”
という感覚があった。
「……先生」
小さく呼ぶ。
返事はない。
焚き火も、ない。
静かだ。
とても。
その静けさを、
ルーネはまだ――
危険だと思えていなかった。