第百十四話 責められたかった
夜だった。
焚き火はない。
灯りは、宿の壁に掛けられた油皿だけだ。芯は短く、揺れも弱い。
机の上には、乾ききった報告書が置かれている。
二人分の死。
どちらも、理由がある死。
「……事故だ」
イェルグが言った。
低く、いつもと同じ声で。
判断を伝える声だった。
「判断の結果だ。失敗じゃない」
その言葉が、ルーネの中で遅れて反響した。
事故。
結果。
失敗ではない。
「……それで」
ルーネの声は、まだ静かだった。
「それで、終わりですか」
イェルグは煙草を取り出し、火を点ける。
深く吸って、吐く。
「終わりだ」
「……じゃあ」
ルーネは、机に手をついた。
「じゃあ、どうすればよかったんですか!!!!!!」
声が、跳ねた。
部屋の空気が、一瞬で張りつめる。
油皿の炎が揺れ、影が壁を走る。
ルーネは、自分が声を荒げたことに気づいていない。
「正しかったって言うなら!
事故だって言うなら!
じゃあ、あの子は!!」
喉が詰まる。
「……あの子は、どうすれば助かったんですか!」
沈黙。
イェルグは、すぐには答えなかった。
煙草を灰皿に置き、指で押し消す。
それから、ようやく口を開いた。
「答えは、一つじゃない」
ルーネは、首を振る。
「逃げないでください」
初めてだった。
ルーネが、そう言ったのは。
イェルグは、ゆっくりとルーネを見る。
責める目ではない。
叱る目でもない。
ただ、現場を見る目だ。
「検死官としての正しさを、まず言う」
そう前置きしてから、話し始める。
「お前は間違っていない。
死を、そのまま見た。
余計な意味を乗せなかった。
それは、正しい」
ルーネの指が、わずかに震える。
「死体を死体として扱う。
感情を挟まず、事実を切り分ける。
それができない奴は、いずれ壊れる」
イェルグは、一息つく。
「だから俺は、お前に“正しくあれ”と教えた」
「……じゃあ、何が」
「正しさだけでは、足りない怪異がいる」
その言葉は、重かった。
「今回のは、そうだ」
イェルグは続ける。
「死をそのまま見るのは正しい。
だがな、情がなければ対処できない怪異もいる」
ルーネは、顔を上げる。
「情は、危険だ。
判断を鈍らせる。
巻き込まれる」
イェルグの声は、静かだった。
「それでも、だ」
一拍。
「情がなければ、守れない生き物がいる」
ルーネの胸が、痛む。
「お前は、静かだと言ったな」
言われて、思い出す。
あの言葉。
「正しかった。
だが、その子にとって“静か”は、生き残る条件だった」
イェルグは、目を伏せる。
「それを、お前が確定させた」
責めてはいない。
事実を述べているだけだ。
「……じゃあ」
ルーネの声が、掠れる。
「俺は……どうすれば」
イェルグは、即答しなかった。
「答え続けるな」
代わりに、そう言った。
「全部に、返事をするな。
正しさにも、恐怖にも、すぐに答えるな」
「……先生」
「考えろ。
“何を言うか”じゃない。
“言っていいか”を」
ルーネは、唇を噛んだ。
「検死官は、死を扱う。
だが、相手はいつも死体とは限らない」
イェルグは立ち上がる。
「今回のは事故だ。
判断の結果だ。
だから、記録は変えない」
その言葉は、冷たい。
でも。
「……だが」
一瞬、間が空く。
「次は、同じ言葉を使うな」
それだけだった。
ルーネは、何も言えなかった。
怒りも、否定も、出てこない。
ただ、自分の中に
“正しさだけでは足りない領域”があることだけが、残った。
油皿の火が、小さく揺れる。
夜は、静かだった。
でもその静けさを、
ルーネはもう――
安全だとは思えなかった。