第百十五話 羽化
その怪異は、名前を持たなかった。
報告書には
「反応型・拘束性怪異」
そう書かれていた。
現場は、石切り場跡だった。
半分崩れた坑道。湿った空気。声がよく反響する。
「ここは、音が残る……」
ルーネが言うと、イェルグは短く頷いた。
「だから呼ばれる」
それ以上は、説明しない。
怪異は、姿を持たない。
だが“応えた者”だけを捕まえる。
坑道の奥から、声がした。
「……だいじょうぶ」
それは、誰かが誰かに言った言葉だった。
過去に。
ここで。
ルーネの足が、止まる。
「返事をするな」
イェルグが即座に言う。
「分かってます」
声は、近づかない。
ただ、反響する。
「だいじょうぶ……ここ……」
ルーネは、呼吸を整える。
(これは――)
イェルグの言葉が、頭をよぎる。
正しさだけでは足りない怪異がいる。
「……先生」
「何だ」
「もし、応えたら」
イェルグは、少しだけ間を置いた。
「その時点で、俺は手を出せない」
理由は、聞かなくても分かった。
この怪異は、関係性で閉じる。
応えた者の“内側”に巣を作る。
坑道の奥で、石が落ちる音。
「ねえ……」
今度の声は、近かった。
ルーネの喉が、勝手に動く。
(駄目だ)
分かっている。
(返したら、終わる)
「……」
沈黙。
一歩、踏み出す。
その瞬間だった。
「すき」
声が、名前を呼ばずに届いた。
条件反射だった。
「……大丈夫だ」
言ってしまった。
空気が、沈む。
坑道の壁が、歪む。
イェルグが叫ぶ。
「ルーネ!」
もう遅い。
視界が、反転する。
音が、内側に落ちる。
――捕まった。
世界が、静かになる。
怪異は、姿を持たないまま
ルーネの中に“場”を作った。
声が、頭の内側で反響する。
「だいじょうぶ」
「いっしょ」
「ここ」
(……これは)
ルーネは、膝をつく。
恐怖は、ない。
代わりに、選ばれた感覚がある。
(俺が、正解にならないと)
イェルグの顔が浮かぶ。
考えろ。“言っていいか”を。
怪異は、求めている。
返事を。
肯定を。
続く言葉を。
(でも)
ルーネは、息を吸う。
(俺は、もう返した)
だから――
ここからは、言葉じゃない。
ルーネは、目を閉じる。
検死官として、学んだことを思い出す。
死体は、語らない。
だから、見る。
「……静かだ」
そう、言った。
それは、怪異に向けた言葉じゃない。
自分への確認だった。
怪異の声が、揺らぐ。
「……すき」
(違う)
ルーネは、心の中で否定する。
(お前は、俺を好きなんじゃない)
(応答が欲しいだけだ)
だから。
返さない。
声が、強くなる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
ルーネは、動かない。
逃げない。
応えない。
ただ、そこにいる。
時間が、歪む。
やがて――
反響が、減っていく。
声が、意味を失う。
「……」
最後に、かすれた音。
それは、言葉にならなかった。
圧が、消える。
ルーネは、地面に手をついた。
視界が戻る。
イェルグが、数歩先に立っている。
武器は抜かれていない。
「……戻ったな」
ルーネは、息を整えながら頷く。
「はい」
「一人でやったか」
「……はい」
イェルグは、何も言わない。
ただ、短く。
「正解だ」
その言葉に、ルーネは首を振った。
「正解じゃないです」
イェルグが、見る。
「選びました」
それだけ、だった。
坑道は、静かだった。
声は、もう残っていない。
この夜、
ルーネは一つ、自分の正解を手に入れた。
それは
誰かに教わったものでも、
記録に残るものでもない。
――一人で、引き受けた判断だった。