検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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手を出せなかった

第百十六話 手を出せなかった

 

イェルグは、動かなかった。

 

正確に言えば、動けなかった、ではない。

動かなかった、だ。

 

円陣は完成していた。

封呪は正しく刻まれ、間違いはない。

怪異は中央に固定され、逃走も拡散も起きていない。

 

――ただ一つ。

 

ルーネが、その中にいる。

 

(馬鹿が)

 

喉まで出かかった言葉を、イェルグは飲み込んだ。

叱責は、今することじゃない。

 

怪異は、静かだった。

騒がない。暴れない。

ただ、そこに「在る」。

 

それが一番、厄介だ。

 

ルーネは、動かない。

剣を抜いていない。

聖句も唱えない。

 

ただ、怪異を見ている。

 

イェルグは、境界の外側から状況を測る。

距離、呼吸、視線の揺れ。

――共鳴は、起きている。

 

(もう、引き金は引かれた)

 

イェルグは、ここで一歩踏み込めば、ルーネを助けられる。

それは事実だ。

 

だが同時に、

踏み込めば「二人とも巻き込まれる」可能性も高い。

 

この怪異は、

救助に来た者を「次の相手」として選ぶ。

 

それを、イェルグは知っている。

 

(……だから、俺は)

 

拳を、ぎゅっと握る。

 

「ルーネ」

 

名前を呼ぶのは、許されている。

返事を求めない限り。

 

ルーネは、わずかにこちらを振り向いた。

目は澄んでいる。

怯えてはいない。

 

――考えている顔だ。

 

(まだだ)

 

まだ、彼は自分の中で答えを探している。

なら、外から押し付けるべきじゃない。

 

検死官は、

「正解を与える仕事」じゃない。

 

起きたことを、

起きたまま、受け取る仕事だ。

 

だからイェルグは、

一歩も動かず、ただ見ていた。

 

助けられなかったのではない。

助けなかった。

 

その選択が、正しいかどうかは――

今は、まだ分からない。

 

 

 

夜。

 

焚き火はない。

必要ない。

 

イェルグは、一人で腰を下ろし、煙草に火をつけた。

煙が肺に入る。

苦い。いつも通りだ。

 

「……ふん」

 

短く、笑う。

 

今日一日で、何が起きたか。

頭の中で整理する。

 

怪異は処理された。

被害は拡大しなかった。

追加の死者も出ていない。

 

報告書に書けば、

「成功」と判定される。

 

(だが)

 

灰を落とす。

 

「先生失格、か」

 

誰に聞かせるでもなく、呟く。

 

教えたのは俺だ。

距離を取れ。

返事をするな。

正しさを守れ。

 

――それで、ああなった。

 

ルーネは、一人で答えを出した。

俺が教えなかったやり方で。

 

助けに入らなかったのは、

理屈の上では正しい。

 

だが、

それを「正しい」と言い切るほど、

俺は冷たくなりきれていない。

 

「……まだ、甘いな」

 

煙草を消す。

 

検死官は、死をそのまま見る。

情を挟まず、歪めず、評価しない。

 

だが、

情がなければ対処できない怪異もいる。

 

その矛盾を、

俺は知っているつもりでいた。

 

「知ってるだけ、だったな」

 

ルーネは、知識じゃなく、

選択でそれを踏み越えた。

 

俺は?

 

境界の外で、

正しさにしがみついて、

弟子を見ていただけだ。

 

「……次は」

 

次があると、仮定してしまう自分を、

イェルグは苦く思う。

 

次は、

手を出すべきか。

それとも、また見ているべきか。

 

答えは、まだ出ない。

 

ただ一つ分かっているのは――

今日、俺は

検死官としては正しく、

師匠としては、足りなかった。

 

それだけだ。

 

煙は消え、

夜は、何も言わない。

 

その沈黙が、

やけに重かった。

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