第百十七話 師の沈黙、弟子の声
最初に異変を感じたのは、足音だった。
響き方が、遅い。
反射が、過剰だ。
(……音が、残っている)
イェルグは立ち止まり、耳を澄ませた。
洞の奥、石肌に吸い込まれたはずの音が、微かに返ってくる。
――エコー系か。
判断は早い。
だが、その先が、鈍る。
(今回は……どうする)
これまでなら、即座に距離を取らせていた。
言葉を遮断し、合図だけで動く。
だが今日は、違った。
(俺が、前に出るべきか)
弟子を守る立場。
だが、守るとは何だ。
手を出すことか。
それとも、手を出さないことか。
迷いは一瞬だった。
だが、怪異にとっては十分だった。
「……来た」
音が、イェルグの名をなぞる。
意味を持たない反響。
だが、声色だけが、妙に“近い”。
(しまった)
理解した時には遅い。
共鳴が、始まっている。
音は音としてではなく、
“判断しかねている感情”に絡みつく。
正しさと、師としての責任。
その隙間に、怪異は入り込む。
足が、止まる。
(……俺は)
助けるべきだったのか。
見ているべきだったのか。
答えを探した、その瞬間。
「先生!」
声が、割り込んだ。
はっきりした、生身の声。
「考えないでください!」
ルーネだ。
距離を詰めすぎている。
本来なら、叱る場面だ。
だが――
その声には、返事を求める“温度”がない。
ただの、合図。
「今は、選ばなくていい!」
怪異が、ざわつく。
反響が乱れる。
イェルグは、はっとする。
(……そうか)
迷いが、最大の餌だった。
「動きます」
ルーネは、そう言って、前に出た。
言葉は短い。
感情を乗せない。
ただ、行動だけを示す。
「三歩、下がって」
命令ではない。
返事を要求しない。
イェルグは、従った。
音が、剥がれる。
共鳴が、途切れる。
怪異は、焦点を失い、
やがて、ただの残響へと還っていった。
静寂。
しばらくして、イェルグは息を吐いた。
「……助けられたな」
ルーネは、少しだけ困った顔をした。
「助けました」
言い切りだった。
イェルグは、苦く笑う。
「……俺は、迷ってた」
「知ってます」
即答。
「先生は、正しいことを考えすぎる」
それは、責めではなかった。
観察の結果だ。
「でも」
ルーネは、少しだけ視線を逸らす。
「考えてる間に、怪異は入ってくるんです」
沈黙。
否定できない。
「……次からは」
イェルグは言いかけて、止めた。
“教える言葉”が、出てこない。
代わりに、短く言う。
「次は、迷わん」
ルーネは、頷いた。
「はい。でも――」
一拍。
「迷ったら、呼んでください」
その言葉は、
共鳴を生まない。
ただの、約束だった。
イェルグは、深く息を吸う。
師として、
ようやく一つ、学んだ気がした。
正しさは、独りで背負うものじゃない。
時には――
弟子に、助けられることもある。
夜は、静かだった。