第百十八話 背中を預ける
夜明け前だった。
空はまだ暗く、しかし完全な夜でもない。
輪郭だけが、少しずつ戻ってくる時間帯。
野営地で、イェルグは装備を点検していた。
動きはいつも通り。無駄がなく、静かだ。
ただ一つ違うのは――
ルーネを、確認しなかったことだった。
これまでは必ず目で追っていた。
立ち位置、呼吸、癖。
“弟子”として問題がないかを見るために。
今日は、しない。
「先生」
背後から声がした。
振り向かない。
それでも、距離も角度も分かる。
「起きてたか」
「ええ」
短い返事。
それで十分だった。
ルーネは隣に腰を下ろす。
火を足すでもなく、道具を触るでもない。
ただ、並ぶ。
しばらく沈黙が続いた。
「……ルーネ」
イェルグが先に口を開く。
「昨日の判断だが」
「はい」
「俺は、迷った」
否定も言い訳もない。
事実だけ。
「それで、怪異に踏み込まれた」
「はい」
同じく、事実だけ。
「お前がいなければ、終わってた」
イェルグは、そこで一度言葉を切った。
これは“教え”じゃない。
“評価”でもない。
告白に近い。
「……助けられた」
ルーネは、少しだけ目を伏せた。
「助けた、って言い切るほどじゃないです」
「そうか?」
「ええ。先生が迷ってくれたから、僕が入れた」
イェルグは、そこでようやくルーネを見る。
若い。
未熟な部分も、まだ多い。
それでも――
視線が、逃げていない。
「俺が迷わなければ、お前は動けなかったか」
「はい」
即答だった。
「先生が“考える人”だから、僕は動けるんです」
それは、慰めでも美化でもない。
役割の確認。
イェルグは、息を吐いた。
「……先生としては、失格かもしれんな」
「検死官としては、どうです?」
「……ぎりぎり、合格だ」
「じゃあ」
ルーネは、小さく笑った。
「それでいいです」
再び、沈黙。
だが、今度は重くない。
風の向きが変わる。
遠くで鳥が鳴いた。
「先生」
「何だ」
「次からは」
ルーネは、言葉を選んだ。
「前と後ろ、決めませんか」
「……どういう意味だ」
「状況で、入れ替わる」
怪異によって。
判断によって。
「僕が前に出るとき、先生は迷ってください」
「逆は?」
「僕が迷います」
イェルグは、しばらく考えた。
そして――
笑った。
本当に、久しぶりに。
「……都合のいい提案だな」
「はい。でも」
ルーネは、真っ直ぐ言う。
「背中は、預けます」
預け“たい”じゃない。
預け“ます”。
イェルグは立ち上がり、ルーネに背を向けた。
意図的に。
「……落とすなよ」
「落としません」
即答。
イェルグは、振り返らないまま言った。
「これからは、弟子じゃない」
一拍。
「検死官同士だ」
ルーネは、少しだけ息を吸ってから答えた。
「はい。――パートナーですね」
夜明けの光が、二人の影を並べる。
どちらが前か、後ろかは分からない。
それでいい。
背中を任せられるなら。