薄くなる村
第百十九話 薄くなる村
村は、地図には載っていなかった。
いや、正確に言えば――載っていないはずだった。
街道から外れた脇道は、最初から道として数えられていないような細さだった。轍はあるが、深くない。人が通っているのに、痕跡が残らない。土が踏み固められる前に、元に戻ってしまうような感触。
「……この先ですか」
ルーネが確認するように言う。
「そうだ」
イェルグは歩調を変えない。迷いがないのが、かえって不気味だった。
視界が開けた瞬間、村は唐突に現れた。
石造りの家が十数軒。畑。井戸。柵。
生活に必要なものが、過不足なく揃っている。
壊れていない。荒れていない。
それなのに、胸の奥がひやりとする。
「……人、いますよね」
ルーネの声が、わずかに低くなる。
「ああ。いる」
イェルグは即答した。
村人は確かにそこにいた。
畑を耕す老人。洗濯物を干す女。走り回る子供。
どれも見慣れた光景だ。
ただ――存在感が薄い。
視線を逸らすと、さっきまで誰がどこにいたのか思い出せなくなる。音も遅れて届く。声が、風に追いつけていない。
「気づいたか」
イェルグが言う。
「ここは、“飲み込まれている途中”だ」
「……村が?」
「人ごと、だ」
ルーネは喉を鳴らした。
「怪異、ですよね」
「ああ」
イェルグは立ち止まった。
村の中央、広場と呼ぶには狭い空間。
「俺が、昔、処理した」
その言葉が、空気を一段冷やした。
「処理……?」
「正確には、“完了”させた」
イェルグは周囲を見渡す。視線は鋭いが、追い詰めるような色はない。ただ確認しているだけだ。現場を。
「当時、被害者はいなかった。発狂者も、行方不明も、死体もなかった」
「……じゃあ、どうして」
「村そのものが怪異だった」
ルーネは息を止めた。
「飲み込む、というより……薄める。
人を、生活を、記録を。
“存在していた事実”そのものを、少しずつ」
「倒せないタイプ、ですね」
「壊せば被害が出る。放置すれば、自然に消える」
イェルグは淡々と続ける。
「だから俺は、教会に提案した。
封鎖。立ち入り禁止。
地図から削除。人名帳の抹消」
ルーネの背中に、嫌な汗が浮かぶ。
「それで……成功扱い、ですか」
「被害ゼロだ。教会の基準では満点だ」
村の端で、子供が転んだ。
泣き声が上がり、途中で――薄れる。
母親が駆け寄ったはずなのに、その動作が曖昧だ。抱き上げたのか、立たせたのか、分からない。
「……先生」
ルーネは、目を離さずに言った。
「ここ、まだ終わってませんよね」
「終わっていない」
「でも、もう“村として”は……」
「数えられていない」
イェルグは短く答えた。
「存在していないものは、救えない。
それが、俺の出した結論だった」
風が吹いた。
洗濯物が揺れ、布の影が一瞬、地面から浮く。
「……今回は」
ルーネは一歩、前に出た。
「今回は、先生一人の判断じゃないですよね」
イェルグが、ゆっくりとルーネを見る。
「役割、決めましょう」
「言え」
「僕は、見る側をやります。
人を数えます。家族単位で、生活単位で。
どこから消えてるのか、拾います」
「俺は」
「判断を。
切るなら、どこを切るか。
残すなら、何を残すか」
一拍。
「今回は――」
ルーネははっきり言った。
「背負わないでください。
一人で」
イェルグの口元が、ほんの僅かに歪んだ。笑いではない。
「……変わったな」
「先生が、変えたんです」
沈黙。
それからイェルグは、深く息を吐いた。
「分かった」
それは命令でも、教えでもない。
同意だった。
その瞬間、村の奥で、家が一軒、きしんだ。
倒れたわけでも、沈んだわけでもない。
ただ、輪郭がぼやけた。
飲み込む村は、まだ動いている。
そして今度は、
二人を数に入れた。