検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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留める仕事

第百二十一話  留める仕事

 

ルーネは、紙を一枚、丁寧に広げた。

 

帳簿用ではない。

教会式の記録でもない。

ただの、粗い紙。

 

「……名前、聞いてもいいですか」

 

相手は、広場の端に座っていた老人だった。

年齢は分からない。皺はあるが、深さが曖昧だ。影が薄い。

 

「名前……?」

 

「はい。あなたの」

 

老人は少し考え、ゆっくり口を開く。

 

「……ヴェルト」

 

声は、ちゃんと届いた。

 

ルーネは紙に書き込む。

ヴェルト。男性。畑を耕している。独居。

 

それだけで、周囲の空気がわずかに“戻る”。

 

「ありがとうございます」

 

礼を言うと、老人は首を傾げた。

 

「……何をしてるんだい」

 

「数えてます」

 

正直に答える。

 

「数?」

 

「ここにいる人を。

 今、生きてる人を」

 

老人は、少しだけ笑った。

 

「変わった仕事だ」

 

「検死官なので」

 

その言葉は、冗談にならなかった。

 

次の家。

次の人。

 

ルーネは同じことを繰り返す。

 

名前。年齢。関係。

誰と住んでいるか。

昨日、何を食べたか。

 

――生活の証明。

 

家族構成を聞いたはずなのに、

途中で人数が減ることがある。

 

「娘さんがいると」

 

「ああ……そうだったかもしれない」

 

「名前は」

 

沈黙。

 

ルーネは、そこで線を引く。

消さない。空白のままにする。

 

空白も、存在だ。

 

それを数えるのが、今の役目だ。

 

時間が経つにつれ、村の様子が変わっていく。

建物の輪郭は相変わらず曖昧だが、人の声が戻る。

 

完全ではない。

だが、飲み込まれる速度が、明らかに落ちている。

 

「……先生」

 

思わず呼びかけて、口を閉じる。

 

イェルグはいない。

どこで何をしているのか、分からない。

 

それでも、約束を思い出す。

 

――残った人間を、繋ぎ止めろ。

 

「次、お願いします」

 

ルーネは、若い女に声をかける。

 

女は赤子を抱いていた。

泣いていない。眠っている。

 

「お子さんの、名前は」

 

一瞬、女の腕が強張る。

 

「……まだ」

 

「まだ?」

 

「決めてなくて」

 

その言葉に、ルーネの喉が鳴る。

 

「仮で、いいです」

 

「仮?」

 

「呼ばれてる音があれば」

 

女は赤子を見下ろし、少し考えた。

 

「……リオ」

 

ルーネは、その名前を書く。

 

その瞬間、

赤子の指が、きゅっと動いた。

 

「……今、何か」

 

女が目を見開く。

 

「はい。

 ちゃんと、いました」

 

それは希望じゃない。

ただの確認。

 

それでも、女は泣いた。

 

夕方、ルーネは紙束をまとめる。

名前は多くない。

だが、減ってもいない。

 

風が吹く。

村が軋む。

 

それでも、今日は耐えている。

 

ルーネは空を見上げた。

 

「……先生」

 

答えはない。

 

でも、今はそれでいい。

 

自分は、数える。

彼は、判断する。

 

背中を預け合う形が、

ようやく噛み合い始めていた。

 

――その頃、村の中心では、

誰にも数えられない場所が、静かに口を開けていた。

 

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