検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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判断する仕事

第百二十二話 判断する仕事

 

村の中心は、地図には載らない。

 

載せられない、が正しい。

 

道があるはずの場所に、道がない。

広場だったはずの空間が、少し狭い。

建物同士の距離が、記憶より近い。

 

――飲み込まれている。

 

イェルグは一人、そこに立っていた。

 

振り返らない。

振り返れば、村の外縁が見える。

見えれば、「戻れる」と思ってしまう。

 

だから、前だけを見る。

 

「……久しぶりだな」

 

誰に向けた言葉でもない。

 

足を踏み出すと、地面がわずかに沈む。

土ではない。

肉でもない。

 

生活の残骸だ。

 

壊された家の気配。

途切れた会話の余韻。

誰かが言いかけて、言わなかった言葉。

 

それらが層になって、腹を形作っている。

 

「村型怪異」

 

昔、そう呼んだ。

 

「共同体消失型」「集団幻覚型」

教会の分類は整っている。

 

だが、当時の自分は――

分類で、終わらせた。

 

「……今回は、そうはいかない」

 

イェルグは煙草を取り出し、火を点けた。

ここでは意味がないと分かっている。

それでも、人間の癖としてやる。

 

一服。

 

煙は、すぐに溶けた。

 

進むにつれ、音が消える。

風も、軋みも、何もない。

 

代わりにあるのは、気配。

 

――まだ、食っている途中だ。

 

「腹を満たせば止まる。

 止めなければ、村ごと消える」

 

過去の自分は、そう判断した。

 

だから封鎖した。

人を近づけず、関係を断ち、

餓死させるつもりだった。

 

結果、どうなったか。

 

村は消えた。

怪異も、消えた。

 

報告書上は、完璧だった。

 

「……完璧すぎたな」

 

今回は違う。

 

ルーネが外で数えている。

生きている人間を。

関係を。

名前を。

 

つまり――

腹は、満たされない。

 

怪異にとって、最悪の状況だ。

 

イェルグは、奥へ進む。

 

中心に近づくにつれ、景色が歪む。

建物が、内側を向いている。

窓が、外ではなく、こちらを見ている。

 

「来るのが遅い」

 

声がした。

 

人の声ではない。

村の声だ。

 

「前は、すぐ来た」

 

「前は、間違っていた」

 

イェルグは立ち止まらない。

 

「人を切り離せば、楽だった。

 今は……うるさい」

 

「外が、な」

 

核心が見えた。

 

広場だった場所。

いや、広場だった記憶。

 

そこに、何かがある。

 

形は、家に近い。

だが、家ではない。

 

扉がある。

開いている。

 

「……腹、か」

 

イェルグは中に入る。

 

温度は、ない。

湿度もない。

 

ただ、圧がある。

 

「お前は、村を守ってるつもりか」

 

返事はない。

 

だが、否定もない。

 

「守るつもりなら、

 食うな」

 

一歩、踏み出す。

 

「それは、

 守りじゃない」

 

圧が強まる。

視界が歪む。

 

――試されている。

 

過去の自分なら、ここで引いた。

「十分だ」と判断した。

 

だが、今は違う。

 

イェルグは、懐からナイフを抜いた。

刃を自分の掌に当てる。

 

「今回は、俺が残る」

 

刃が皮膚を切る。

血が落ちる。

 

それは、餌ではない。

証明だ。

 

「数えられてる村は、

 簡単には食えないぞ」

 

圧が、揺らぐ。

 

外で、誰かの名前が呼ばれた気がした。

 

――ルーネだ。

 

「……良い弟子を持った」

 

それは誇りだった。

初めて、胸を張って言える。

 

「だから、今回は」

 

イェルグは一歩、深く踏み込む。

 

「一人で終わらせない」

 

腹の奥で、何かが軋んだ。

拒絶か、理解か。

 

どちらでもいい。

 

重要なのは――

判断を、今の自分で下したことだ。

 

外で、数が増えている。

内で、腹が満ちなくなっている。

 

この怪異は、もう長くは保たない。

 

イェルグは踵を返した。

 

背中を向けても、飲み込まれない。

 

――戻れる。

 

それが、何よりの違いだった。

 

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