第百二十三話 呼び戻す
腹の中は、書庫のようだった。
棚があるわけではない。
紙が積まれているわけでもない。
ただ、記録されるはずだったものの重みだけが、空間に残っている。
イェルグは足を止めた。
「……ああ」
それは、帳面だった。
革張り。
角が擦り切れ、背表紙の文字はほとんど読めない。
それでも、開いた瞬間に分かる。
村の住民帳だ。
名前。年齢。続柄。
耕地の割り当て。
誰が誰と隣り合って暮らしていたか。
「まだ、持ってたか」
怪異が作ったものではない。
飲み込んだのだ。
村ごと。
イェルグは一冊目を手に取る。
指先が、かすかに震えた。
――昔の自分なら、ここで燃やした。
――証拠ごと、終わらせた。
だが今は違う。
「……戻すぞ」
返事はない。
だが、腹の圧が、わずかに緩む。
イェルグは帳面を開いた。
「ヴェルト」
声に出す。
次の瞬間、
遠くで、何かがほどける音がした。
重なっていた空気が、一枚剥がれる。
「畑持ち。独居。
朝は早い。パンを焦がす癖がある」
思い出す必要はない。
書いてある。
「呼ばれてるぞ。戻れ」
――消える。
腹の壁から、影が一つ、抜け落ちた。
次。
「マルタ。妻。
娘あり。名は……」
一瞬、詰まる。
「……リオ」
外で、声がした気がした。
ルーネだ。
名前を、数えている。
イェルグは続ける。
「帰れ」
影が、ほどける。
腹が、軽くなる。
怪異が、ようやく理解し始めている。
食べたのではなく、預かっていただけだったことを。
イェルグは淡々と、呼ぶ。
一人ずつ。
感情を乗せない。
慰めない。
謝らない。
ただ、記録に従って、戻す。
外では、ルーネが動かない。
立っている。
声を上げない。
楔だ。
もし、ここで怪異が閉じようとすれば、
外から引き留める役。
「……良い位置だ」
独り言が落ちる。
帳面は、最後の一冊になった。
名前の数は、少ない。
「……村長、か」
一番最後に呼ぶのは、決まっている。
「お前は、村を守ろうとしたな」
怪異が、微かに震える。
「やり方を、間違えただけだ」
それは断罪ではない。
評価でもない。
ただの事実。
「戻れ」
最後の影が、消える。
――腹が、空になる。
圧が、なくなる。
イェルグは立っていられなくなり、膝をついた。
「……終わりだ」
音もなく、
腹だった空間が、空白に変わる。
外の光が、差し込む。
「先生!」
ルーネの声だ。
イェルグは、ゆっくり立ち上がる。
「……楔、効いてたぞ」
「……はい」
短い返事。
二人は、何も言わずに外へ出る。
村は、もう飲まれていない。
完全ではない。
戻らないものもある。
だが――
数えられる村になった。
イェルグは振り返らない。
ルーネも、振り返らない。
怪異は、そこにいない。
呼ばれて、
名前を取り戻して、
静かに、終わった。