検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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杯を交わす

第百二十五話 杯を交わす

 

雨上がりの町は、夜になると匂いが変わる。

濡れた石畳と、古い木造の壁、それから酒場から漏れる甘い酒精の匂い。

仕事を終えた人間たちの声が、通りにゆっくりと溜まっていた。

 

「……ここでいいですか」

 

ルーネが立ち止まったのは、看板も控えめな、小さな酒場だった。

派手さはないが、扉の向こうからは人の気配がする。

 

「構わん」

 

イェルグは短く答える。

その声には、いつもの張りがなかった。

 

中は静かだった。

遅い時間帯で、客は数人。

笑い声もあるが、騒がしくはない。

 

二人は隅の席に腰を下ろした。

 

「酒は」

 

「……初めて、先生と飲みますね」

 

ルーネがそう言うと、イェルグは一瞬だけ目を細めた。

 

「そうだったか」

 

「はい。今までは……何となく」

 

何となく、飲む気になれなかった。

理由は分かっている。

酔えば、口が緩む。

声に、返事をしてしまうかもしれないと思っていた。

 

イェルグは煙草を取り出しかけて、やめた。

 

「今日は、いい」

 

そう言って、酒を二つ頼む。

 

出てきたのは、薄い色の酒だった。

強くはないが、香りがある。

 

「……乾杯、って言うんですか」

 

「言わなくていい」

 

それでも、二人は杯を軽く合わせた。

 

音は小さい。

 

一口飲んで、ルーネは息を吐いた。

 

「……思ってたより、普通ですね」

 

「酒は大体そうだ」

 

「もっと、何か変わるのかと」

 

「変わるのは、飲んだ後だ」

 

イェルグはそう言って、自分も一口飲む。

喉を鳴らす音が、やけに静かに聞こえた。

 

しばらく、言葉はなかった。

ただ、酒場のざわめきと、木の床の軋む音。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「……あの村のこと」

 

ルーネは、杯の縁を指でなぞる。

 

「まだ、考えてます」

 

「考えるのは悪くない」

 

「でも」

 

言葉に詰まる。

 

「正しかったのかどうか、分からないままです」

 

イェルグは、すぐには答えなかった。

杯を置き、少しだけ姿勢を崩す。

 

「分かる日が来るとは限らん」

 

「……ですよね」

 

「だが」

 

そこで、イェルグはルーネを見た。

 

「分からないままでも、次の現場には立てる」

 

それは慰めではなく、事実だった。

 

「お前は、立てていた」

 

ルーネは、驚いたように瞬きをする。

 

「……先生に、そう言われると」

 

「重いか」

 

「はい。ちょっと」

 

苦笑する。

 

イェルグは鼻で笑った。

 

「俺もだ」

 

それだけで、十分だった。

 

二杯目を頼む。

今度は、少し強い酒。

 

「そういえば」

 

ルーネが言う。

 

「先生、昔は……一人でやってたんですよね」

 

「ああ」

 

「今は」

 

言い淀む。

 

「今は、背中を預けてる」

 

イェルグは、あっさり言った。

 

「悪くない」

 

その言葉に、ルーネは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

 

酒のせいだけじゃない。

 

「……次は」

 

ルーネが言いかけて、止める。

 

「次は、何だ」

 

「次の任務、ですよ」

 

イェルグは、杯を持ち上げたまま、少しだけ間を置いた。

 

「南だ」

 

「また、厄介そうですね」

 

「大体はな」

 

杯が空になる。

 

「行けるか」

 

その問いは、もう試すものじゃなかった。

 

「はい」

 

ルーネは、迷わず答える。

 

外では、雨の名残が静かに落ちていた。

町はまだ眠らない。

声も、光も、ちゃんとそこにある。

 

二人は席を立つ。

 

次の現場へ行くまで、少しだけ――

人が息をしている時間。

 

それで、十分だった。

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