検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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未来につながる仕事
昇進の日


昇進の日

 

その日は、驚くほど事務的に始まった。

 

朝の鐘が鳴る前から、教会付属庁舎は動いている。

廊下を行き交う靴音、紙束の擦れる音、乾いたインクの匂い。昨日までと何も変わらない。

 

「……本当に、今日なんですね」

 

ルーネは、声を落として言った。

正装と呼ばれる外套は相変わらず地味で、黒に近い色合いだ。検死官にとって、昇進は見た目に現れない。

 

「延期される理由はない」

 

イェルグは淡々と返す。

今日は煙草を吸っていない。建物内で禁止されているからでもあるが、それ以上に、今は煙を必要としないだけだった。

 

会議室は簡素だった。

長机の向こうに、上位検死官、記録官、司祭。

誰一人、感情を顔に出さない。

 

読み上げは短い。

 

内包型村落怪異の処理。

被害の最小化。

発生機序の再定義。

再発防止策の提言。

 

功績として十分すぎる。

 

「――以上の理由により、

イェルグ・ハルヴァンを検死官長に任命する」

 

間を置かず、続く。

 

「同じく、ルーネ・ブルースを中位検死官に任命する」

 

拍手はない。

あるのは、ペンが紙を削る音だけだ。

 

「……拝命します」

 

ルーネの声は、わずかに遅れたが、震えてはいなかった。

 

部屋を出ると、空気が変わる。

廊下ですれ違う検死官たちの視線が、はっきりと“立場”を測ってくる。

 

「先生……」

 

「その呼び方は、公ではやめろ」

 

イェルグは即座に言った。

 

「俺はもう、管理側だ」

 

「……でも、現場には出るんですよね」

 

一瞬、イェルグは足を止めた。

 

「出る」

 

短い返事。

 

「検死官長は、本来なら現場に出ない。

書類と人員と責任を管理する役職だ」

 

それは、ルーネも知っている。

だからこそ、教会内ではこの昇進に、少しざわめきがあった。

 

「だが今回は例外だ」

 

イェルグは歩きながら続ける。

 

「内包型村落怪異の再定義をした人間が、

机の前に座ってるだけで済むと思われなかった」

 

「……危険だから、ですか」

 

「責任だからだ」

 

淡々とした声だった。

 

「“分かっている者が現場に出ろ”

それが、上の判断だ」

 

昼過ぎ、庁舎裏の食堂。

薄いスープと硬いパン。昇進祝いらしいものは何もない。

 

「実感、ないです」

 

ルーネが言う。

 

「実感が出たら、たぶん終わりだ」

 

イェルグはパンを割りながら答える。

 

「官長になったってことは、

俺が“直接見ない死体”が増える」

 

ルーネは黙る。

 

「お前が中位になったってことは、

判断を任される失敗が増える」

 

視線が合う。

 

「祝う話じゃない」

 

「……それでも」

 

ルーネは少し考えてから言った。

 

「一緒に昇ったのは、悪くないです」

 

イェルグは、ほんの一瞬だけ口の端を上げた。

 

夕方、徽章が渡される。

イェルグのそれは重い。

ルーネのそれは、まだ余白がある。

 

「似合ってる」

 

不意にイェルグが言った。

 

「背負える顔になった」

 

褒め言葉ではない。

検死官同士の、確認だ。

 

庁舎を出る頃、街はいつも通り回っていた。

市場の喧騒、子供の声、夕餉の匂い。

 

「……次の任務は」

 

ルーネが聞く。

 

イェルグは空を見上げた。

 

「北だ。

家が一軒、音もなく消えた町がある」

 

「官長が、直接?」

 

「だから例外だ」

 

歩き出しながら、イェルグは言う。

 

「分かっている者が行く。

それが、今の教会のやり方だ」

 

二人は並んで歩く。

もう、背中を追う距離ではない。

 

昇進の日は、こうして終わった。

祝福も、感動もない。

 

ただ、

次の現場が、静かに待っているだけだった。

 

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