昇進の日
昇進の日
その日は、驚くほど事務的に始まった。
朝の鐘が鳴る前から、教会付属庁舎は動いている。
廊下を行き交う靴音、紙束の擦れる音、乾いたインクの匂い。昨日までと何も変わらない。
「……本当に、今日なんですね」
ルーネは、声を落として言った。
正装と呼ばれる外套は相変わらず地味で、黒に近い色合いだ。検死官にとって、昇進は見た目に現れない。
「延期される理由はない」
イェルグは淡々と返す。
今日は煙草を吸っていない。建物内で禁止されているからでもあるが、それ以上に、今は煙を必要としないだけだった。
会議室は簡素だった。
長机の向こうに、上位検死官、記録官、司祭。
誰一人、感情を顔に出さない。
読み上げは短い。
内包型村落怪異の処理。
被害の最小化。
発生機序の再定義。
再発防止策の提言。
功績として十分すぎる。
「――以上の理由により、
イェルグ・ハルヴァンを検死官長に任命する」
間を置かず、続く。
「同じく、ルーネ・ブルースを中位検死官に任命する」
拍手はない。
あるのは、ペンが紙を削る音だけだ。
「……拝命します」
ルーネの声は、わずかに遅れたが、震えてはいなかった。
部屋を出ると、空気が変わる。
廊下ですれ違う検死官たちの視線が、はっきりと“立場”を測ってくる。
「先生……」
「その呼び方は、公ではやめろ」
イェルグは即座に言った。
「俺はもう、管理側だ」
「……でも、現場には出るんですよね」
一瞬、イェルグは足を止めた。
「出る」
短い返事。
「検死官長は、本来なら現場に出ない。
書類と人員と責任を管理する役職だ」
それは、ルーネも知っている。
だからこそ、教会内ではこの昇進に、少しざわめきがあった。
「だが今回は例外だ」
イェルグは歩きながら続ける。
「内包型村落怪異の再定義をした人間が、
机の前に座ってるだけで済むと思われなかった」
「……危険だから、ですか」
「責任だからだ」
淡々とした声だった。
「“分かっている者が現場に出ろ”
それが、上の判断だ」
昼過ぎ、庁舎裏の食堂。
薄いスープと硬いパン。昇進祝いらしいものは何もない。
「実感、ないです」
ルーネが言う。
「実感が出たら、たぶん終わりだ」
イェルグはパンを割りながら答える。
「官長になったってことは、
俺が“直接見ない死体”が増える」
ルーネは黙る。
「お前が中位になったってことは、
判断を任される失敗が増える」
視線が合う。
「祝う話じゃない」
「……それでも」
ルーネは少し考えてから言った。
「一緒に昇ったのは、悪くないです」
イェルグは、ほんの一瞬だけ口の端を上げた。
夕方、徽章が渡される。
イェルグのそれは重い。
ルーネのそれは、まだ余白がある。
「似合ってる」
不意にイェルグが言った。
「背負える顔になった」
褒め言葉ではない。
検死官同士の、確認だ。
庁舎を出る頃、街はいつも通り回っていた。
市場の喧騒、子供の声、夕餉の匂い。
「……次の任務は」
ルーネが聞く。
イェルグは空を見上げた。
「北だ。
家が一軒、音もなく消えた町がある」
「官長が、直接?」
「だから例外だ」
歩き出しながら、イェルグは言う。
「分かっている者が行く。
それが、今の教会のやり方だ」
二人は並んで歩く。
もう、背中を追う距離ではない。
昇進の日は、こうして終わった。
祝福も、感動もない。
ただ、
次の現場が、静かに待っているだけだった。