机の前の怪異
検死官長室は、思ったよりも狭かった。
窓は一つ。光は入るが、景色は見えない。
外に向けて開くための部屋じゃない、という配置だった。
机は広い。
だがそれは、余裕のためではなく、紙を置くための広さだ。
イェルグは椅子に腰を下ろし、最初の書類束を引き寄せた。
革紐でまとめられた報告書。日付、地名、死者数、担当検死官の名。
――死体を見ない朝は、久しぶりだった。
インク壺の蓋を開け、ペン先を整える。
この動作だけは、現場と変わらない。
最初の一枚。
「案件番号:三四一二
分類:接触型怪異
被害:軽度衰弱三名
死者:なし」
イェルグは、そこで一度ペンを止めた。
「……“なし”か」
声に出す必要はない。
だが、検死官長としての仕事は、こういう“なし”を疑うところから始まる。
次の紙をめくる。
「処理内容:接触遮断
結果:沈静化
後遺症:なし」
後遺症なし。
イェルグは、わずかに眉を寄せた。
「……質問だ」
部屋の隅に控えていた下位検死官が、背筋を伸ばす。
「はい、官長」
「この“後遺症なし”は、誰が判断した」
「現地担当の中位検死官です」
「医療記録は」
「付属しております」
差し出された紙束に目を通す。
脈拍、睡眠、食事量。すべて基準値内。
それでも、イェルグは頷かなかった。
「三ヶ月後の追跡は?」
「……予定されていません」
「追加しろ」
即答だった。
「記録は“今”しか見ない。
怪異は、時間を置いて牙を出す」
下位検死官が頷き、書き留める。
イェルグは、ふと気づく。
――命令している。
現場で刃を振るうより、ずっと静かで、ずっと重い。
昼を過ぎるころには、机の上は紙の山になっていた。
内包型。
反響型。
接触型。
消失型。
どれも、過去に彼自身が現場で見たものだ。
だからこそ、分かる。
「……これは、失敗だ」
一件の報告書を引き抜く。
被害ゼロ。
迅速な処理。
教会評価:優。
だが、イェルグは赤で一行、書き足した。
「判断が早すぎる」
会議の時間。
上位検死官が、穏やかな声で言う。
「ハルヴァン官長。
現場に出ない代わりに、厳しすぎるという声が出ています」
「そうか」
イェルグは感情を乗せない。
「現場の負担になると」
「現場は、楽をする場所じゃない」
一瞬、空気が張り詰める。
「……だが」
イェルグは続けた。
「俺が現場に出ていた頃、
“後遺症なし”と書かれた報告書の裏で、
何人も静かに壊れていった」
沈黙。
「だから、机で止める。
それが、俺の仕事だ」
会議はそれ以上、進まなかった。
夕方。
官長室に、ルーネが顔を出す。
「失礼します」
「用件は」
「……様子を見に」
イェルグは、机の書類を示した。
「これが、俺の怪異だ」
「紙、ですか」
「人が書いた判断の塊だ。
間違えば、死体になる」
ルーネは、黙ってそれを見る。
「現場に出たいと思いますか」
ルーネが聞いた。
イェルグは、少しだけ考えた。
「思う」
正直だった。
「だが、今はここに座る方が、
救える数が多い」
「……官長ですね」
イェルグは鼻で笑った。
「向いてない」
外は、夕暮れだ。
「次の任務は」
ルーネが言う。
イェルグは、新しい書類を一枚、取り上げた。
「まだ机の上だ。
だが、いずれ現場に落ちる」
ペンを走らせる。
「それまでに、判断を整える」
机の前でも、
怪異は、確かに息をしていた。