検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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机の前の怪異

机の前の怪異

 

検死官長室は、思ったよりも狭かった。

 

窓は一つ。光は入るが、景色は見えない。

外に向けて開くための部屋じゃない、という配置だった。

 

机は広い。

だがそれは、余裕のためではなく、紙を置くための広さだ。

 

イェルグは椅子に腰を下ろし、最初の書類束を引き寄せた。

革紐でまとめられた報告書。日付、地名、死者数、担当検死官の名。

 

――死体を見ない朝は、久しぶりだった。

 

インク壺の蓋を開け、ペン先を整える。

この動作だけは、現場と変わらない。

 

最初の一枚。

 

「案件番号:三四一二

 分類:接触型怪異

 被害:軽度衰弱三名

 死者:なし」

 

イェルグは、そこで一度ペンを止めた。

 

「……“なし”か」

 

声に出す必要はない。

だが、検死官長としての仕事は、こういう“なし”を疑うところから始まる。

 

次の紙をめくる。

 

「処理内容:接触遮断

 結果:沈静化

 後遺症:なし」

 

後遺症なし。

 

イェルグは、わずかに眉を寄せた。

 

「……質問だ」

 

部屋の隅に控えていた下位検死官が、背筋を伸ばす。

 

「はい、官長」

 

「この“後遺症なし”は、誰が判断した」

 

「現地担当の中位検死官です」

 

「医療記録は」

 

「付属しております」

 

差し出された紙束に目を通す。

脈拍、睡眠、食事量。すべて基準値内。

 

それでも、イェルグは頷かなかった。

 

「三ヶ月後の追跡は?」

 

「……予定されていません」

 

「追加しろ」

 

即答だった。

 

「記録は“今”しか見ない。

怪異は、時間を置いて牙を出す」

 

下位検死官が頷き、書き留める。

 

イェルグは、ふと気づく。

 

――命令している。

 

現場で刃を振るうより、ずっと静かで、ずっと重い。

 

昼を過ぎるころには、机の上は紙の山になっていた。

 

内包型。

反響型。

接触型。

消失型。

 

どれも、過去に彼自身が現場で見たものだ。

だからこそ、分かる。

 

「……これは、失敗だ」

 

一件の報告書を引き抜く。

 

被害ゼロ。

迅速な処理。

教会評価:優。

 

だが、イェルグは赤で一行、書き足した。

 

「判断が早すぎる」

 

会議の時間。

 

上位検死官が、穏やかな声で言う。

 

「ハルヴァン官長。

 現場に出ない代わりに、厳しすぎるという声が出ています」

 

「そうか」

 

イェルグは感情を乗せない。

 

「現場の負担になると」

 

「現場は、楽をする場所じゃない」

 

一瞬、空気が張り詰める。

 

「……だが」

 

イェルグは続けた。

 

「俺が現場に出ていた頃、

 “後遺症なし”と書かれた報告書の裏で、

 何人も静かに壊れていった」

 

沈黙。

 

「だから、机で止める。

 それが、俺の仕事だ」

 

会議はそれ以上、進まなかった。

 

夕方。

官長室に、ルーネが顔を出す。

 

「失礼します」

 

「用件は」

 

「……様子を見に」

 

イェルグは、机の書類を示した。

 

「これが、俺の怪異だ」

 

「紙、ですか」

 

「人が書いた判断の塊だ。

 間違えば、死体になる」

 

ルーネは、黙ってそれを見る。

 

「現場に出たいと思いますか」

 

ルーネが聞いた。

 

イェルグは、少しだけ考えた。

 

「思う」

 

正直だった。

 

「だが、今はここに座る方が、

 救える数が多い」

 

「……官長ですね」

 

イェルグは鼻で笑った。

 

「向いてない」

 

外は、夕暮れだ。

 

「次の任務は」

 

ルーネが言う。

 

イェルグは、新しい書類を一枚、取り上げた。

 

「まだ机の上だ。

 だが、いずれ現場に落ちる」

 

ペンを走らせる。

 

「それまでに、判断を整える」

 

机の前でも、

怪異は、確かに息をしていた。

 

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