第十二話 余波
祈祷が終わった川は、
一見すると、何も変わっていなかった。
水は、
まだそこにある。
岸も、
崩れていない。
空気も、
特別に重いわけではない。
「……静かですね」
ルーネの言葉は、
確認だった。
「ええ」
イェルグは、
同意する。
静かすぎる、
という種類の。
川の音が、
薄い。
流れてはいる。
だが、
届いてこない。
まるで、
音だけが、
境界を越えられなくなったようだった。
「……祈祷は、
成功したんでしょうか」
「祈りは、
終わりました」
イェルグは、
いつもの言い方で答えた。
成功かどうかを、
語るには、
まだ早い。
二人が川沿いを歩いていると、
足元で、
ぱきりと音がした。
小枝ではない。
「……魚です」
ルーネが、
しゃがみ込む。
浅瀬に、
小さな魚が浮いている。
死んでいるわけではない。
だが、
動いていない。
「……傷は……」
「ありません」
イェルグは、
魚を拾い上げる。
鱗は、
乾いている。
「……水の中に、
いるのに……」
「境界が、
“水として”
機能していません」
ルーネは、
理解が追いつかない顔をした。
「……それって……」
「ここは、
淡水ですが」
イェルグは、
川を見渡す。
「淡水“らしさ”が、
薄れている」
さらに進むと、
別のものがあった。
川岸の土に、
浅い跡。
足跡ではない。
引きずった跡でもない。
「……何かを……
置いた……?」
「ええ」
イェルグは、
その場に膝をついた。
土の色が、
違う。
湿っているはずの場所が、
粉を吹いている。
「……触れて、
いいですか」
「ええ」
ルーネが指で触れる。
「……温かい……」
それは、
朝の温度ではなかった。
「……生きて……?」
「いいえ」
イェルグは、
即座に否定する。
「“通った”
だけです」
ルーネは、
息を詰めた。
「……越えた……
んですか」
「いいえ」
イェルグは、
首を振る。
「まだ」
「……まだ……」
その言葉が、
喉に引っかかる。
さらに下流。
そこに、
それはあった。
「……これは……」
布切れ。
祈祷隊の、
法衣の端。
白いはずの布が、
内側から、
変色している。
「……血……?」
「違います」
イェルグは、
布を裏返した。
そこに、
皮膚のような痕。
「……吸われた……?」
「ええ」
「……でも……
人じゃ……」
「人が、
境界になった」
イェルグの声は、
低かった。
「祈祷は、
川を“揺らしました”」
「……それで……」
「境界が、
人に移った」
沈黙が、
落ちる。
川は、
相変わらず静かだ。
だが、
その静けさは、
もう、安全ではない。
「……ヌックは……」
ルーネが、
恐る恐る言う。
「ええ」
イェルグは、
淡々と答える。
「理解しました」
「……何を」
「境界は、
動くものだと」
「……」
「そして」
イェルグは、
川から目を離した。
「人が、
それを、
肩代わりする、
ということも」
ルーネの手が、
震えた。
「……止められますか」
「止める、
という考え方は……」
言葉を、
選ぶ。
「もう、
適切ではありません」
川の上流から、
風が吹く。
水面が、
わずかに歪む。
そこに、
一瞬。
皮膚のない何かが、
映ったような気がした。
「……見ましたか」
「ええ」
イェルグは、
否定しない。
「……まだ……
完全じゃない……」
「ええ」
イェルグは、
煙草を取り出した。
火は、
つけない。
「だから、
今が、
一番危険です」
祈りは、
終わった。
だが、
余波は。
今から、
始まる。