第十三話 境界体
その死体は、
川のそばにはなかった。
それが、
最初の違和感だった。
「……離れていますね」
ルーネの声は、
乾いていた。
村の外れ。
畑と森のあいだ。
淡水からは、
明らかに距離がある。
それでも、
イェルグは迷わなかった。
「ええ」
「……なのに……」
「境界は、
場所ではありません」
その言葉を、
この日ほど重く言ったことはなかった。
死体は、
仰向けだった。
倒れた、
というより。
――置かれている。
そう表現する方が、
正しかった。
四肢は揃い、
衣服も乱れていない。
外傷も、
見当たらない。
「……眠っている、
みたいですね」
ルーネが、
そう言った瞬間。
イェルグは、
小さく息を吐いた。
「ええ」
否定しなかった。
それが、
問題だった。
「……でも……」
ルーネは、
しゃがみ込む。
「……死んで……」
「います」
イェルグは、
断言する。
「ただし」
一拍。
「“終わり方”が、
違う」
布を、
静かにめくる。
胸部。
腹部。
異常は、
ない。
だが、
首元で、
ルーネの視線が止まった。
「……皮膚が……」
「ええ」
そこだけ、
境目がある。
喉から、
鎖骨にかけて。
皮膚が、
“曖昧”だ。
剥がれてはいない。
溶けてもいない。
ただ、
どこまでがこの人の身体で、
どこからが違うのか。
判断できない。
「……ここ、
触っていいですか」
「ええ」
ルーネの指が、
そっと触れる。
「……冷たい……」
「温度ではありません」
イェルグは、
淡々と続ける。
「“区切り”が、
ありません」
「……区切り……」
「皮膚は、
境界です」
ルーネは、
ゆっくり頷く。
「……内と外を……」
「分けるものです」
イェルグは、
遺体の喉元を示す。
「ここは、
分けることを、
やめています」
「……」
「この人は、
境界になった」
ルーネの喉が、
鳴った。
「……どういう……」
「越えさせたのです」
イェルグは、
視線を外さない。
「川が、
揺らぎ」
「祈りが、
境界を動かし」
「人が、
それを、
肩代わりした」
ルーネは、
静かに座り込んだ。
「……この人は……
何を……」
「恐れたのでしょう」
「……」
「あるいは」
イェルグは、
一瞬だけ言葉を探す。
「守ろうとした」
その可能性を、
否定しなかった。
「……自分が、
境界になれば……」
「ええ」
「……他は、
助かる……」
「ええ」
その答えが、
残酷だった。
「……じゃあ……
この人は……」
「犠牲ではありません」
イェルグは、
はっきり言った。
「選択です」
「……でも……」
「選ばされた、
選択ではありますが」
沈黙が、
落ちる。
風が、
草を揺らす。
その音が、
やけに大きい。
「……ヌックは……」
ルーネが、
震える声で言う。
「この人を……」
「越えていません」
イェルグは、
首を振る。
「ただ」
一拍。
「“使った”」
ルーネは、
顔を覆った。
「……境界に、
なった人は……」
「壊れます」
即答だった。
「境界は、
人のための、
役割ではない」
「……」
「内と外を、
分け続けるには」
イェルグは、
静かに言う。
「人は、
柔らかすぎる」
ルーネの肩が、
小さく震えた。
「……教会は……」
「祈りで、
包むでしょう」
イェルグは、
遺体に布をかける。
「ですが」
布の上から、
胸に手を置く。
「境界だった、
という事実は、
消えません」
遠くで、
鐘が鳴る。
「……次は……」
ルーネの声が、
かすれる。
「……誰が……」
イェルグは、
立ち上がった。
煙草を取り出す。
火は、
つけない。
「それを、
止めるために」
一拍。
「検死官が、
います」
川は、
見えない。
だが、
ここにも。
確かに、
境界は、
残っていた。