第十五話 宿
教会の宿は、
静かだった。
祈祷隊が去ったあと特有の、
人が減った静けさ。
仕事だけが片づけられ、
理由は片づけられていない、
そんな空気が残っている。
石造りの壁は厚く、
外の風を遮っているはずなのに、
どこか寒かった。
イェルグは、
部屋の椅子に腰掛け、
靴を脱いだ。
足の裏が、
ようやく床に触れる。
それだけのことで、
少し疲れが表に出た。
「……静かですね」
ルーネが言う。
寝台に腰を下ろし、
外套を丁寧に畳んでいる。
「ええ」
イェルグは、
短く答えた。
「静かな宿は、
あまり良い兆候ではありません」
「……事件が、
片づいた後だから……」
「ええ」
それ以上、
否定はしなかった。
宿の廊下から、
足音が聞こえる。
二人分。
慣れた歩幅。
「イェルグ」
扉が、
軽く叩かれた。
返事をする前に、
開く。
同僚だった。
同じ検死官。
年齢は、
少し上。
「戻ってたか」
「ええ」
男は、
部屋を一瞥する。
「……聖務官も、
無事そうだな」
「はい」
ルーネは、
軽く頭を下げた。
男は、
一瞬だけ、
彼を見て。
何も言わなかった。
「川の件」
男は、
声を落とす。
「報告書、
読んだ」
「……どうでした」
「上出来だ」
即答だった。
「だが」
一拍。
「書いてない部分も、
よく分かる」
イェルグは、
何も言わない。
それで、
十分だった。
「……祈祷隊は、
満足している」
「ええ」
「表向きはな」
男は、
腕を組む。
「だが、
上は気づいてる」
「何に」
「お前が、
まだ、
現場に立っていることに」
ルーネの指が、
わずかに止まった。
「……“まだ”、
ですか」
男は、
苦く笑う。
「普通なら、
もう少し前に、
机に縛られてる」
「……」
「境界の話を、
現場で続けるのは……」
言葉を、
選ぶ。
「好かれない」
「ええ」
イェルグは、
淡々と答える。
「ですが」
「だが、
お前はまだ、
呼ばれる」
男は、
声を落とす。
「“生きている”
検死官としてな」
その言葉が、
部屋に残る。
「……それは」
ルーネが、
口を開く。
「褒め言葉、
ではない」
男は、
即答した。
「だが、
必要な間は……」
視線を、
イェルグに戻す。
「使われる」
「ええ」
イェルグは、
否定しない。
「……ルーネ」
男は、
今度は彼を見る。
「教えられすぎたな」
一瞬、
張り詰める。
「……はい」
ルーネは、
正直に答えた。
男は、
小さく息を吐いた。
「まあ、
それも……
あいつのやり方だ」
扉に手をかける。
「休め」
「ええ」
「次は……」
言葉を、
濁す。
「境界じゃないかもしれん」
それだけ言って、
男は去った。
部屋に、
静けさが戻る。
「……生きている、
って……」
ルーネが、
ぽつりと言う。
「……変な言い方ですね」
「ええ」
イェルグは、
靴を揃えた。
「死体の側に、
長くいれば……」
「……?」
「生きていることは、
特別になります」
ルーネは、
それ以上、
聞かなかった。
寝台に横になり、
天井を見る。
「……今日は……」
「ええ」
「眠れそうです」
イェルグは、
煙草を取り出した。
だが、
火はつけない。
「それは、
良いことです」
「……はい」
外では、
鐘が鳴っている。
祈りの時間。
だが、
この部屋では、
誰も祈らない。
それでも、
眠る。
それが、
生きている者の、
特権だった。
そして。
廊下の向こうで、
誰かが囁く。
「……まだ、
あの検死官……」
「ええ……
生きてます」
「……なら、
次も……」
声は、
遠ざかる。
名前は、
呼ばれない。
だが、
確かに。
イェルグは、
まだ、
生きていた。
そして、
使われる。
境界が、
また、
揺れたときまで。