検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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宿

第十五話 宿

 

教会の宿は、

静かだった。

 

祈祷隊が去ったあと特有の、

人が減った静けさ。

仕事だけが片づけられ、

理由は片づけられていない、

そんな空気が残っている。

 

石造りの壁は厚く、

外の風を遮っているはずなのに、

どこか寒かった。

 

イェルグは、

部屋の椅子に腰掛け、

靴を脱いだ。

 

足の裏が、

ようやく床に触れる。

 

それだけのことで、

少し疲れが表に出た。

 

「……静かですね」

 

ルーネが言う。

 

寝台に腰を下ろし、

外套を丁寧に畳んでいる。

 

「ええ」

 

イェルグは、

短く答えた。

 

「静かな宿は、

 あまり良い兆候ではありません」

 

「……事件が、

 片づいた後だから……」

 

「ええ」

 

それ以上、

否定はしなかった。

 

宿の廊下から、

足音が聞こえる。

 

二人分。

慣れた歩幅。

 

「イェルグ」

 

扉が、

軽く叩かれた。

 

返事をする前に、

開く。

 

同僚だった。

 

同じ検死官。

年齢は、

少し上。

 

「戻ってたか」

 

「ええ」

 

男は、

部屋を一瞥する。

 

「……聖務官も、

 無事そうだな」

 

「はい」

 

ルーネは、

軽く頭を下げた。

 

男は、

一瞬だけ、

彼を見て。

 

何も言わなかった。

 

「川の件」

 

男は、

声を落とす。

 

「報告書、

 読んだ」

 

「……どうでした」

 

「上出来だ」

 

即答だった。

 

「だが」

 

一拍。

 

「書いてない部分も、

 よく分かる」

 

イェルグは、

何も言わない。

 

それで、

十分だった。

 

「……祈祷隊は、

 満足している」

 

「ええ」

 

「表向きはな」

 

男は、

腕を組む。

 

「だが、

 上は気づいてる」

 

「何に」

 

「お前が、

 まだ、

 現場に立っていることに」

 

ルーネの指が、

わずかに止まった。

 

「……“まだ”、

 ですか」

 

男は、

苦く笑う。

 

「普通なら、

 もう少し前に、

 机に縛られてる」

 

「……」

 

「境界の話を、

 現場で続けるのは……」

 

言葉を、

選ぶ。

 

「好かれない」

 

「ええ」

 

イェルグは、

淡々と答える。

 

「ですが」

 

「だが、

 お前はまだ、

 呼ばれる」

 

男は、

声を落とす。

 

「“生きている”

 検死官としてな」

 

その言葉が、

部屋に残る。

 

「……それは」

 

ルーネが、

口を開く。

 

「褒め言葉、

 ではない」

 

男は、

即答した。

 

「だが、

 必要な間は……」

 

視線を、

イェルグに戻す。

 

「使われる」

 

「ええ」

 

イェルグは、

否定しない。

 

「……ルーネ」

 

男は、

今度は彼を見る。

 

「教えられすぎたな」

 

一瞬、

張り詰める。

 

「……はい」

 

ルーネは、

正直に答えた。

 

男は、

小さく息を吐いた。

 

「まあ、

 それも……

 あいつのやり方だ」

 

扉に手をかける。

 

「休め」

 

「ええ」

 

「次は……」

 

言葉を、

濁す。

 

「境界じゃないかもしれん」

 

それだけ言って、

男は去った。

 

部屋に、

静けさが戻る。

 

「……生きている、

 って……」

 

ルーネが、

ぽつりと言う。

 

「……変な言い方ですね」

 

「ええ」

 

イェルグは、

靴を揃えた。

 

「死体の側に、

 長くいれば……」

 

「……?」

 

「生きていることは、

 特別になります」

 

ルーネは、

それ以上、

聞かなかった。

 

寝台に横になり、

天井を見る。

 

「……今日は……」

 

「ええ」

 

「眠れそうです」

 

イェルグは、

煙草を取り出した。

 

だが、

火はつけない。

 

「それは、

 良いことです」

 

「……はい」

 

外では、

鐘が鳴っている。

 

祈りの時間。

 

だが、

この部屋では、

誰も祈らない。

 

それでも、

眠る。

 

それが、

生きている者の、

特権だった。

 

そして。

 

廊下の向こうで、

誰かが囁く。

 

「……まだ、

 あの検死官……」

 

「ええ……

 生きてます」

 

「……なら、

 次も……」

 

声は、

遠ざかる。

 

名前は、

呼ばれない。

 

だが、

確かに。

 

イェルグは、

まだ、

生きていた。

 

そして、

使われる。

 

境界が、

また、

揺れたときまで。

 

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