働きすぎる家
第十六話 働きすぎる家
パンの匂いは、朝というよりも家そのものから滲み出しているようだった。
石造りの建物はまだ薄暗い街路に沈みながら、釜の熱だけを確かに内側へ抱え込んでいる。壁に触れずとも、近づくだけでわかる。昨夜も、そしておそらく今朝も、この家は眠っていない。
働き続けている。
イェルグは戸口の前で足を止め、懐から煙草を一本取り出した。唇に咥える。だが火は点けない。火種が必要なのは煙草ではなく、この場の空気のほうだとでも言うように、彼はそのまま立っていた。
「……熱、逃がしてないですね」
隣に立つルーネが、小さく言った。
彼は教会の若い聖務官で、外套の下にまだ硬さの残る法衣を着ている。記録用の板と紙を胸に抱え、視線は家の壁、窓、屋根へと忙しなく移ろっていた。
ルーネには、この建物が「生き物のようだ」と感じられていた。
吐く息は熱く、鼓動は釜の中で一定に刻まれ、そして何より、休む気配がない。
「逃がすと冷えるからな」
イェルグは低く答えた。煙草を指で回しながら、扉の蝶番を見ている。油が差され、軋みはない。人の手が、ここまで行き届いている。
あるいは――人でない手か。
教会からの通達は簡素だった。
境界地区の工房付き住居に対する生活確認。
安全指導。
「協力」の要請。
その言葉が、命令と同義であることを、ルーネはまだ身体で理解しきれていない。だがイェルグは違った。彼はこの手の呼び出しが、事件の前触れであることを知っている。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
早すぎる。待っていたかのように。
「はい、今!」
現れたのは家主だった。五十を少し越えた男で、腕も背も分厚い。粉と煤の匂いを染み込ませた前掛けをつけ、顔には疲労よりも誇りが浮かんでいる。
「教会の方ですな。どうぞ、どうぞ中へ」
中はさらに熱かった。
釜はすでに火が落とされているはずなのに、壁も床もまだ温もりを抱え込んでいる。掃除は完璧で、粉一つ落ちていない。完璧すぎるほどだ。
ルーネは思わず、床を見下ろした。
滑らかすぎる。
雑巾をかけたばかりの床というより、磨かれ続けた床のようだった。
「今朝の焼き上がりは?」
イェルグが何気なく尋ねる。
「上々ですとも。ここ最近はずっと。釜の具合が良くてね」
家主は嬉しそうに笑った。
それを見て、ルーネの胸に小さな引っかかりが生まれる。
“ずっと?”
弟子の姿が見えたのは、奥の水場だった。若い。顔色が悪く、目の下に影がある。挨拶をしても声が小さく、視線が定まらない。
「夜はよく眠れているか?」
イェルグの問いに、弟子は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……はい。まあ」
その「まあ」が、家の中に落ちて消えた。
下宿人は二階から降りてきた。
工房とは距離を取るように、壁際を歩き、最低限の会釈だけを残して外へ出ていく。彼の靴底には、工房の煤がついていない。
ルーネはそれを、しっかり見ていた。
一通りの確認が終わり、イェルグは釜の前に立った。
中を覗き込む。火はない。だが、まだ“仕事の途中”の匂いがする。
「よく働く家ですね」
そう言ったのは、ルーネだった。
感心と、不安が半分ずつ混じった声。
イェルグは答えなかった。
煙草を唇から外し、指で軽く叩く。
「……誰も、止める役をやってない家だな」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。
それでも、ルーネの背筋に、冷たいものが一筋走った。
この家は、まだ何も奪っていない。
だが、もう十分に準備は整っている。
外に出ると、朝の光が差し込んでいた。
パンの匂いは、相変わらず街路に満ちている。
ルーネは振り返る。
石の家は、何事もなかったようにそこに立っていた。
――事件は、まだ起きていない。
だが、境界はすでに、ここに引かれていた。