第十七話 夜に働くもの
夜半、ルーネは目を覚ました。
理由ははっきりしている。
夢でも、寒さでもない。
音だった。
最初は、家鳴りだと思った。
古い石造りの建物なら、夜に軋むこともある。釜の熱が抜けきらず、壁の内側で膨張と収縮を繰り返す音だと、自分に言い聞かせることもできた。
だが、その音は規則的すぎた。
……とん。
……とん。
……とん。
間隔が一定で、しかも妙に軽い。
木を叩く音にも似ているが、硬質さがない。湿った布を丸めて、石に打ちつけているような、鈍い音。
ルーネは寝台の上で身を起こし、耳を澄ました。
同室にいるはずのイェルグは、いない。外套も、椅子にかけた帽子も消えている。あの男は夜更けになると、よく外へ出る。煙草のためか、それとも眠れないだけなのかはわからない。
音は、下からだ。
工房の方角。
昼間、釜があった場所。
ルーネは喉を鳴らし、毛布を払いのけた。
廊下に出ると、石床が裸足に冷たい。昼の熱が嘘のようだ。だがその冷えの奥に、微かな温もりが残っているのを、彼は確かに感じ取った。
……とん。
……とん。
音は止まらない。
人の足音ではない。
呼吸も、咳も伴わない。
ルーネは手すりに指をかけ、階段を数段下りたところで足を止めた。
工房の扉は閉じられている。だが、その隙間から、かすかな光が漏れていた。火を落としたはずの釜が、なぜ。
教義が頭をよぎる。
家庭精霊。
ブローニー。
家に仕え、仕事を助け、代価を求めない存在。
「……働きすぎる家」
昼間、イェルグが言った言葉が、胸の奥で小さく鳴った。
ルーネはそれ以上近づかなかった。
近づくべきではない、と理屈ではなく身体が告げていた。
代わりに彼は、祈りの言葉を一つだけ、胸の内で転がした。声には出さない。名前も呼ばない。存在を認識すること自体が、招きになる気がしたからだ。
音は、夜明け前まで続いた。
翌朝、パンの匂いでルーネは再び目を覚ました。
それは昨夜と同じ、過剰なほどに整った匂いだった。焦げも、ムラもない。完璧な焼き上がりを告げる香り。
階下では、すでに人の気配が慌ただしく動いている。
「……何かあったのか」
そう思った瞬間、扉が強く叩かれた。
「聖務官! 起きてますか!」
弟子の声ではない。
家主でもない。
下宿人だ。
イェルグはすでに廊下にいた。外套を羽織り、煙草を指に挟んだまま、火は点けていない。目だけが、いつもより少し冴えている。
工房の裏口。
そこに、遺体はあった。
若い弟子だった。
仰向けに倒れ、首が不自然な角度に曲がっている。血はほとんど出ていない。争った形跡もない。だが、身体の下、石床には――
磨かれた跡があった。
転倒したにしては、床が綺麗すぎる。
引きずられたにしては、傷がない。
「……落ちた、わけじゃないな」
イェルグが低く言った。
ルーネは喉がひりつくのを感じながら、しゃがみ込んだ。
首元、背中、手首。
どこにも、明確な外傷はない。
だが、弟子の指先は、異様に温かかった。
「昨夜も……釜は動いていましたか?」
ルーネの問いに、家主は答えられなかった。
目を伏せ、口を結び、何度も「まさか」と呟くだけだ。
イェルグは遺体を見下ろしながら、ようやく煙草に火を点けた。
一吸い。
煙が、ゆっくりと立ち上る。
「働いたんだよ」
誰にともなく、そう言った。
「家のために。パンのために。
……人の代わりにな」
ルーネは、昨夜聞いた音を思い出していた。
とん、という鈍い響き。
あれは、掃除の音だったのかもしれない。
――仕事を、やり遂げるための。
遺体は、まだ“事件”ではない。
そう扱われるだろう。事故。過労。転倒。
だがルーネは知ってしまった。
夜、この家では、人でないものが働いていたことを。
そしてそれは、
働きすぎた結果を、すでに一つ、残している。