検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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夜に働くもの

第十七話 夜に働くもの

 

夜半、ルーネは目を覚ました。

 

理由ははっきりしている。

夢でも、寒さでもない。

音だった。

 

最初は、家鳴りだと思った。

古い石造りの建物なら、夜に軋むこともある。釜の熱が抜けきらず、壁の内側で膨張と収縮を繰り返す音だと、自分に言い聞かせることもできた。

 

だが、その音は規則的すぎた。

 

……とん。

……とん。

……とん。

 

間隔が一定で、しかも妙に軽い。

木を叩く音にも似ているが、硬質さがない。湿った布を丸めて、石に打ちつけているような、鈍い音。

 

ルーネは寝台の上で身を起こし、耳を澄ました。

同室にいるはずのイェルグは、いない。外套も、椅子にかけた帽子も消えている。あの男は夜更けになると、よく外へ出る。煙草のためか、それとも眠れないだけなのかはわからない。

 

音は、下からだ。

 

工房の方角。

昼間、釜があった場所。

 

ルーネは喉を鳴らし、毛布を払いのけた。

廊下に出ると、石床が裸足に冷たい。昼の熱が嘘のようだ。だがその冷えの奥に、微かな温もりが残っているのを、彼は確かに感じ取った。

 

……とん。

……とん。

 

音は止まらない。

人の足音ではない。

呼吸も、咳も伴わない。

 

ルーネは手すりに指をかけ、階段を数段下りたところで足を止めた。

工房の扉は閉じられている。だが、その隙間から、かすかな光が漏れていた。火を落としたはずの釜が、なぜ。

 

教義が頭をよぎる。

家庭精霊。

ブローニー。

家に仕え、仕事を助け、代価を求めない存在。

 

「……働きすぎる家」

 

昼間、イェルグが言った言葉が、胸の奥で小さく鳴った。

 

ルーネはそれ以上近づかなかった。

近づくべきではない、と理屈ではなく身体が告げていた。

代わりに彼は、祈りの言葉を一つだけ、胸の内で転がした。声には出さない。名前も呼ばない。存在を認識すること自体が、招きになる気がしたからだ。

 

音は、夜明け前まで続いた。

 

翌朝、パンの匂いでルーネは再び目を覚ました。

 

それは昨夜と同じ、過剰なほどに整った匂いだった。焦げも、ムラもない。完璧な焼き上がりを告げる香り。

階下では、すでに人の気配が慌ただしく動いている。

 

「……何かあったのか」

 

そう思った瞬間、扉が強く叩かれた。

 

「聖務官! 起きてますか!」

 

弟子の声ではない。

家主でもない。

下宿人だ。

 

イェルグはすでに廊下にいた。外套を羽織り、煙草を指に挟んだまま、火は点けていない。目だけが、いつもより少し冴えている。

 

工房の裏口。

そこに、遺体はあった。

 

若い弟子だった。

 

仰向けに倒れ、首が不自然な角度に曲がっている。血はほとんど出ていない。争った形跡もない。だが、身体の下、石床には――

 

磨かれた跡があった。

 

転倒したにしては、床が綺麗すぎる。

引きずられたにしては、傷がない。

 

「……落ちた、わけじゃないな」

 

イェルグが低く言った。

 

ルーネは喉がひりつくのを感じながら、しゃがみ込んだ。

首元、背中、手首。

どこにも、明確な外傷はない。

 

だが、弟子の指先は、異様に温かかった。

 

「昨夜も……釜は動いていましたか?」

 

ルーネの問いに、家主は答えられなかった。

目を伏せ、口を結び、何度も「まさか」と呟くだけだ。

 

イェルグは遺体を見下ろしながら、ようやく煙草に火を点けた。

一吸い。

煙が、ゆっくりと立ち上る。

 

「働いたんだよ」

 

誰にともなく、そう言った。

 

「家のために。パンのために。

……人の代わりにな」

 

ルーネは、昨夜聞いた音を思い出していた。

とん、という鈍い響き。

あれは、掃除の音だったのかもしれない。

 

――仕事を、やり遂げるための。

 

遺体は、まだ“事件”ではない。

そう扱われるだろう。事故。過労。転倒。

 

だがルーネは知ってしまった。

夜、この家では、人でないものが働いていたことを。

 

そしてそれは、

働きすぎた結果を、すでに一つ、残している。

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