検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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小さな手が残したもの

第十八話 小さな手が残したもの

 

異変は、どれも些細だった。

 

最初に気づいたのは、粉袋の減り方だ。

量としては誤差の範囲だったが、減り方が均一すぎる。人の手なら、どうしても偏りが出る。袋の底が先に軽くなるか、上から崩れるか、癖が残る。

 

だが、この家の粉袋は違った。

まるで秤で量ったかのように、毎晩、同じ分だけが消えていく。

 

「……帳簿、合ってますよね」

 

ルーネがそう言うと、家主は困ったように笑った。

 

「ええ、合ってます。合ってるんですけど……助かってまして」

 

その言い方が、妙に引っかかった。

 

助かっている。

人が死んだ家で、その言葉を使うことに、何のためらいもない。

 

イェルグは黙って煙草を取り出し、工房の隅で火をつけた。

朝の光の中で立ち上る煙は、夜よりも輪郭がはっきりしている。

 

「釜は?」

 

「火を落としてます。ちゃんと」

 

「ちゃんと、ね」

 

イェルグはそう言って、釜の縁を指でなぞった。

灰が、指先に薄く付く。

 

「……ここ、動かしてるな」

 

ほんの数寸。

言われなければ気づかないほどのズレ。

だが石床には、細い引きずり跡が残っていた。

 

ルーネは膝をつき、目を凝らす。

灰の上に、点々と残る痕。

 

足跡だった。

 

小さい。

裸足。

だが人間の幼児とも違う。指が長く、配置が歪だ。踵の接地面が狭く、体重が前にかかっている。

 

「……ブローニー、ですね」

 

言葉にした瞬間、胸の奥がきしんだ。

知識として知っているものと、現実として向き合うものは、まるで違う。

 

「そうだ」

 

イェルグは煙を吐き、足跡を踏まないように一歩引いた。

 

「見ろ。歩幅が一定だ。

仕事場を移動してるんじゃない。

巡回してる」

 

ルーネの背筋に、冷たいものが走る。

 

巡回。

それは、家を“管理”しているということだ。

 

「……善性、なんですよね」

 

確認するように言うと、イェルグは即座に否定しなかった。

 

「教義上はな」

 

煙草が短くなる。

彼は灰を落とし、次の一本に火をつける。

 

「だが善性ってのは、

“人間に都合がいい”って意味じゃない」

 

昼過ぎ、別の異変が見つかった。

 

干していたはずの布巾が、すべて畳まれていた。

しかも、同じ大きさに。

角の揃え方が、異様なほど正確だ。

 

ルーネはそれを手に取り、指先でなぞった。

温かい。

 

「……まだ、やってる」

 

誰も言葉にしなかったが、全員が同じことを思っていた。

弟子が死んだ後も、

この家の“手伝い”は、止まっていない。

 

夕方、家主がぽつりと言った。

 

「いなくなったら……困るんです」

 

その声は、正直だった。

恐怖よりも、生活の重さが勝っている。

 

ルーネは、その言葉を否定できなかった。

パンは焼かれ、仕事は回り、家は整う。

それが、この家の日常だったのだから。

 

夜、ルーネは一人で廊下に立っていた。

 

眠れなかった。

昨夜と同じ音が、また聞こえるのではないかと、耳が勝手に探してしまう。

 

……とん。

……とん。

 

来た。

 

小さい音。

規則的な、軽い足音。

 

工房の方からだ。

 

喉が鳴る。

逃げるべきだと理性が言う。

だが、足が動かない。

 

暗がりの向こう、釜のそばで、何かが動いた。

 

背は低い。

人間の腰ほど。

頭が大きく、手足が不釣り合いに長い。

 

ゴブリンに似ている。

だが、童話に出てくるような愛嬌はない。

身体は痩せ、背中は曲がり、指は粉で白く染まっている。

 

それは、布巾を抱えていた。

 

一枚一枚、石の上に並べ、

皺を伸ばし、

角を揃えている。

 

仕事をしている。

 

ルーネは息を詰めた。

祈りの言葉が、喉の奥で引っかかる。

 

その瞬間、床板が小さく鳴った。

 

ブローニーが、ぴたりと動きを止めた。

 

顔が、こちらを向く。

 

目が合った、と思った。

 

次の瞬間、

小さな影は、釜の裏へと滑り込み、消えた。

 

音もなく。

気配だけを残して。

 

ルーネは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

 

――見てしまった。

 

それだけで、世界の手触りが変わる。

 

背後で、火打石の音がした。

 

イェルグだった。

煙草に火をつけ、夜の闇に煙を溶かす。

 

「見たな」

 

否定しようとして、できなかった。

 

「……はい」

 

イェルグは、それ以上何も言わなかった。

ただ、煙を吐き、暗い工房を見つめている。

 

「なあ、ルーネ」

 

低い声。

 

「これはまだ、事件じゃない」

 

その言葉が、やけに重かった。

 

「だがな」

 

煙草を踏み消す音。

 

「このままじゃ、次が出る」

 

ルーネは、喉の奥が焼けるように痛んだ。

 

助けている。

働いている。

善いことをしている。

 

それでも――

人は、壊れる。

 

夜の工房には、もう音はなかった。

だが、ルーネにははっきりとわかっていた。

 

この家にはまだ、

小さな手が、息づいている。

 

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