第十八話 小さな手が残したもの
異変は、どれも些細だった。
最初に気づいたのは、粉袋の減り方だ。
量としては誤差の範囲だったが、減り方が均一すぎる。人の手なら、どうしても偏りが出る。袋の底が先に軽くなるか、上から崩れるか、癖が残る。
だが、この家の粉袋は違った。
まるで秤で量ったかのように、毎晩、同じ分だけが消えていく。
「……帳簿、合ってますよね」
ルーネがそう言うと、家主は困ったように笑った。
「ええ、合ってます。合ってるんですけど……助かってまして」
その言い方が、妙に引っかかった。
助かっている。
人が死んだ家で、その言葉を使うことに、何のためらいもない。
イェルグは黙って煙草を取り出し、工房の隅で火をつけた。
朝の光の中で立ち上る煙は、夜よりも輪郭がはっきりしている。
「釜は?」
「火を落としてます。ちゃんと」
「ちゃんと、ね」
イェルグはそう言って、釜の縁を指でなぞった。
灰が、指先に薄く付く。
「……ここ、動かしてるな」
ほんの数寸。
言われなければ気づかないほどのズレ。
だが石床には、細い引きずり跡が残っていた。
ルーネは膝をつき、目を凝らす。
灰の上に、点々と残る痕。
足跡だった。
小さい。
裸足。
だが人間の幼児とも違う。指が長く、配置が歪だ。踵の接地面が狭く、体重が前にかかっている。
「……ブローニー、ですね」
言葉にした瞬間、胸の奥がきしんだ。
知識として知っているものと、現実として向き合うものは、まるで違う。
「そうだ」
イェルグは煙を吐き、足跡を踏まないように一歩引いた。
「見ろ。歩幅が一定だ。
仕事場を移動してるんじゃない。
巡回してる」
ルーネの背筋に、冷たいものが走る。
巡回。
それは、家を“管理”しているということだ。
「……善性、なんですよね」
確認するように言うと、イェルグは即座に否定しなかった。
「教義上はな」
煙草が短くなる。
彼は灰を落とし、次の一本に火をつける。
「だが善性ってのは、
“人間に都合がいい”って意味じゃない」
昼過ぎ、別の異変が見つかった。
干していたはずの布巾が、すべて畳まれていた。
しかも、同じ大きさに。
角の揃え方が、異様なほど正確だ。
ルーネはそれを手に取り、指先でなぞった。
温かい。
「……まだ、やってる」
誰も言葉にしなかったが、全員が同じことを思っていた。
弟子が死んだ後も、
この家の“手伝い”は、止まっていない。
夕方、家主がぽつりと言った。
「いなくなったら……困るんです」
その声は、正直だった。
恐怖よりも、生活の重さが勝っている。
ルーネは、その言葉を否定できなかった。
パンは焼かれ、仕事は回り、家は整う。
それが、この家の日常だったのだから。
夜、ルーネは一人で廊下に立っていた。
眠れなかった。
昨夜と同じ音が、また聞こえるのではないかと、耳が勝手に探してしまう。
……とん。
……とん。
来た。
小さい音。
規則的な、軽い足音。
工房の方からだ。
喉が鳴る。
逃げるべきだと理性が言う。
だが、足が動かない。
暗がりの向こう、釜のそばで、何かが動いた。
背は低い。
人間の腰ほど。
頭が大きく、手足が不釣り合いに長い。
ゴブリンに似ている。
だが、童話に出てくるような愛嬌はない。
身体は痩せ、背中は曲がり、指は粉で白く染まっている。
それは、布巾を抱えていた。
一枚一枚、石の上に並べ、
皺を伸ばし、
角を揃えている。
仕事をしている。
ルーネは息を詰めた。
祈りの言葉が、喉の奥で引っかかる。
その瞬間、床板が小さく鳴った。
ブローニーが、ぴたりと動きを止めた。
顔が、こちらを向く。
目が合った、と思った。
次の瞬間、
小さな影は、釜の裏へと滑り込み、消えた。
音もなく。
気配だけを残して。
ルーネは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
――見てしまった。
それだけで、世界の手触りが変わる。
背後で、火打石の音がした。
イェルグだった。
煙草に火をつけ、夜の闇に煙を溶かす。
「見たな」
否定しようとして、できなかった。
「……はい」
イェルグは、それ以上何も言わなかった。
ただ、煙を吐き、暗い工房を見つめている。
「なあ、ルーネ」
低い声。
「これはまだ、事件じゃない」
その言葉が、やけに重かった。
「だがな」
煙草を踏み消す音。
「このままじゃ、次が出る」
ルーネは、喉の奥が焼けるように痛んだ。
助けている。
働いている。
善いことをしている。
それでも――
人は、壊れる。
夜の工房には、もう音はなかった。
だが、ルーネにははっきりとわかっていた。
この家にはまだ、
小さな手が、息づいている。