検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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川と境界
傷が語るもの


第一話 傷が語るもの

 

死体は、街道脇の低木のあいだに横たわっていた。

 

発見者は商人だった。

夜明け前に通りかかり、最初は荷袋だと思ったという。

近づいて、違うと分かった。

 

イェルグはその話を、歩きながら聞いていた。

頷きもしなければ、質問もしない。

必要な情報は、すでに足元に転がっている。

 

現場に近づくにつれ、空気が変わる。

湿り気が増え、土が柔らかくなる。

ここは獣が通る。

人も通る。

 

つまり、混ざる場所だ。

 

イェルグは膝をつき、死体の傍にしゃがみ込む。

護衛兵が一人、少し離れたところで立っている。

剣に手をかけたまま、落ち着かない様子だ。

 

「魔物、ですよね?」

 

兵の声は、確信よりも期待に近い。

魔物であってほしい、という。

 

イェルグは答えない。

代わりに、死体の右腕を持ち上げた。

 

皮膚は裂けている。

だが、噛み跡ではない。

歯型がない。

 

爪だ。

 

深さは均一ではない。

浅いものと、深いものが混ざっている。

力任せではない。

 

イェルグは、傷の縁を指でなぞる。

血は、途中で止まっている。

死後についた傷が混じっている証拠だ。

 

「……逃げた」

 

独り言のように言う。

 

「一度は、逃げてます」

 

兵が顔を上げる。

 

「え?」

 

「最初の一撃では、死んでいない。

 この人、走ってる」

 

イェルグは、死体の脚を見る。

脛に擦過傷。

転倒の跡。

土が、皮膚の下に入り込んでいる。

 

転んだあと、

追いつかれた。

 

「で、ここで……」

 

背中に、深い裂傷。

だが、致命傷ではない。

 

致命傷は、首だ。

 

喉元に、三本。

等間隔。

噛み跡ではない。

 

「噛んでない」

 

兵が眉をひそめる。

 

「魔物ですよね?」

 

「ええ」

 

イェルグは頷く。

 

「でも、獣じゃない」

 

彼は腰袋から小さな紙包みを出し、

乾き葉を指で崩す。

火は、まだつけない。

 

考えるときの癖だ。

 

「爪で裂いて、

 最後は……切ってます」

 

「切る?」

 

「刃物みたいな動きです。

 爪を閉じて、

 引いた」

 

兵は、言葉を失う。

 

彼はようやく、顔を上げる。

 

煙が、風に流れる。

 

イェルグは、

それを追わなかった。

「……ヌックです」

 

イェルグがそう言ったとき、

護衛兵は一瞬、言葉を理解できなかった。

 

「水の……魔物、ですか?」

 

「ええ。

 本来は」

 

イェルグは、死体の胸元を指さす。

溶けた布地の縁は、焼け焦げたようでいて、違う。

繊維が、腐ったように崩れている。

 

「瘴気か、体液です。

 触れた部分だけ、選んだみたいに」

 

兵は唾を飲み込む。

 

「でも、ここは……」

 

「湿地じゃない」

 

イェルグは頷く。

 

「だから、

 ここにいるのはおかしい」

 

彼は立ち上がり、周囲を見回す。

低木、乾いた土、踏み荒らされた跡。

 

そして、

水の気配。

 

ほんのわずかだ。

人間なら気づかない。

だが、ヌックには十分だ。

 

「この下に、

 古い水路があります」

 

兵が目を見開く。

 

「そんな話、聞いたことが……」

 

「聞かれなくなっただけです」

 

イェルグは、腰袋からナイフを取り出した。

解体用。

刃は短く、厚い。

 

「境界は、

 消えるとき、音を立てません」

 

兵が、はっとして剣に手をかける。

 

「ま、まさか……」

 

その瞬間だった。

 

地面が、わずかに濡れた。

 

水ではない。

冷たい、粘つく何か。

 

イェルグは、考えるより先に動いていた。

 

後ろへ一歩、

身体を捻る。

 

爪が空を裂く音がした。

 

「来てます」

 

声は低い。

だが、揺れていない。

 

兵が叫び、剣を抜く。

だが、動きが遅い。

 

ヌックは、半身だけ地上に現れていた。

人の腕。

獣の胴。

水に濡れた体表。

 

イェルグは、距離を詰める。

 

剣ではない。

彼の武器は、

近さだ。

 

爪が振るわれる。

彼は踏み込み、

刃を、

脇腹の奥へ滑り込ませた。

 

骨の感触。

そして、

違う感触。

 

「……やっぱり、ここだ」

 

ヌックが叫ぶ。

声にならない音。

 

イェルグは刃を引かない。

捻る。

 

体液が飛び散り、

地面を腐らせる。

 

兵が、ようやく一撃を入れる。

だが、致命傷ではない。

 

イェルグは、低く言った。

 

「離れて」

 

次の瞬間、

彼は自分の外套を投げつけた。

 

布が、溶ける。

その隙に、

刃を、喉元へ。

 

噛まない魔物は、

喉が弱い。

 

ヌックは崩れ落ち、

水へと還るように消えた。

 

沈黙。

 

兵が、震える声で言う。

 

「……検死官、ですよね?」

 

イェルグは、外套を拾い上げる。

溶けた端を見て、少しだけ眉をひそめた。

 

「ええ。

 だから、

 死なせないために戦うわけじゃありません」

 

彼は、死体のほうへ戻る。

 

「この人が、

 どうして選ばれたのか。

 それを知るためです」

 

赤い布が、

まだ、風に揺れている。

 

イェルグは、それを見た。

 

そして、

この死が、

一体で終わらないことを、

もう理解していた。

 

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