検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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見られた手は、去る

第十九話 見られた手は、去る

 

朝は、何事もなかったかのように始まった。

 

釜は冷えていた。

粉袋は減っていない。

布巾は畳まれていない。

 

工房は、ただの工房に戻っていた。

 

「……いません」

 

ルーネの声は、自分でも驚くほど乾いていた。

 

イェルグは黙って周囲を見回し、灰の残り具合を確かめ、床にしゃがみ込む。

昨夜まであったはずの足跡は、どこにも残っていなかった。

 

「逃げたな」

 

そう言って、煙草に火をつける。

 

朝の空気の中で立ち上る煙は、昨夜よりも軽く、頼りない。

まるで、もうここに留まる理由がないと知っているみたいだった。

 

ルーネは胸の奥に、重たい塊が沈むのを感じていた。

恐怖でも、安堵でもない。

ただ、自分が関わった結果、何かが終わったという感覚。

 

「……僕が、見たからですか」

 

問いというより、確認だった。

 

イェルグは否定しない。

 

「見られたからだ」

 

煙を吐く。

 

「ブローニーはな、

“仕事をしている限り、家の一部”だ」

 

ルーネは、ゆっくりと理解する。

 

「……家族に、見られたわけじゃない」

 

「そうだ」

 

「でも、外の目に――人の理屈に――触れた」

 

イェルグは一瞬だけ、ルーネを見る。

 

「だから去った。

壊す前に、な」

 

その言葉が、救いなのかどうか、ルーネにはわからなかった。

 

昼前、教会の正式な通達が届いた。

 

事故死。

過労による不慮の事故。

家庭精霊の関与は「確認されず」。

 

紙の上では、すべてが整然と片づけられていく。

 

家主は、深く頭を下げた。

感謝しているのか、安堵しているのか、自分でもわかっていない顔だった。

 

「もう……大丈夫なんですよね」

 

ルーネは答えられなかった。

 

イェルグが代わりに言う。

 

「今は、な」

 

それ以上は、何も付け足さない。

 

遺体は埋葬された。

祈りは、形式通りに捧げられた。

工房は再開される。

 

ただ一つだけ、変わったことがある。

 

夜になると、

この家は静かすぎた。

 

掃除の音も、釜の調整も、

「誰かが手伝ってくれる」気配も、もうない。

 

その静けさを、誰も口にしなかった。

 

帰路につく前、ルーネは工房の入口で立ち止まった。

視線が、無意識に床を探す。

 

……何もない。

 

それが、ひどく胸に来た。

 

「正しいことをしたんでしょうか」

 

背後で、煙草に火がつく音。

 

「正しいかどうかで考えると、壊れるぞ」

 

イェルグはそう言って、煙を吐いた。

 

「これは、起きたことだ」

 

ルーネは、その言葉を噛みしめる。

 

見た。

関わった。

結果、去った。

 

助けたのか、壊したのか、

誰にもわからない。

 

「……また、起きますか」

 

「さあな」

 

イェルグは肩をすくめた。

 

「働かせすぎる家がある限り、

“善い手”は、また来る」

 

馬車に乗り込む前、ルーネは一度だけ振り返った。

 

工房の扉は閉じている。

中に、何かが潜んでいる気配は、もうない。

 

それでも彼は、はっきりと理解していた。

 

この家から去ったのは、

危険だけではない。

 

助けもまた、同時に失われたのだ。

 

馬車が動き出す。

道の先で、煙草の火が揺れる。

 

イェルグは、何も言わなかった。

 

ただ、灰を落とし、

次の仕事のことを考えている顔だった。

 

解決していない。

だが、終わった。

 

その感覚だけが、

ルーネの中に、重く残り続けていた。

 

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