検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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善き家に棲むもの

第二十話 善き家に棲むもの

 

その家の話は、まず「腕のいいパン屋の話」として広まった。

 

弟子を一人失ったにもかかわらず、釜は止まらなかった。

焼き上がるパンの数は減らず、焦げも失敗も少なかった。

むしろ以前より、形が揃っている――そんな言い方をする者もいた。

 

「夜の間に、誰かが手伝ってたんだろう」

 

最初は、そういう現実的な推測だった。

親戚だとか、内緒で雇った下働きだとか。

だが、ほどなくして、別の言葉が混じり始める。

 

「いや、あそこは昔からだ」

「小さいのが出る」

「家に棲むやつだ」

 

ブローニー、という名前が出たのは、その少し後だった。

 

名を知っている者は少なかったが、

“そういう存在”の話は、どの土地にもある。

働き者で、無償で、しかし気難しい。

感謝を忘れると去り、粗末に扱えば祟る。

 

話は、聞き手に合わせて形を変えた。

 

市場では、戒めの話になる。

――怠けると、夜に小さな手が現れる。

――働かない者の指を、そっと引っ張る。

 

酒場では、怖い話になる。

――夜中に釜が動く。

――灰の中に、奇妙な足跡が残る。

――見てしまった弟子は、翌朝、冷たくなっていた。

 

子どもたちの間では、もっと単純になる。

――夜に工房を覗くと、ゴブリンがいる。

――目が合うと、連れていかれる。

 

誰もが少しずつ、都合のいいところだけを持ち帰った。

 

死んだ弟子の名前は、いつの間にか消えた。

過労という言葉も、事故という判断も、語られなくなった。

それは説明が面倒で、後味が悪かったからだ。

 

代わりに残ったのは、

「見てはいけない」

「感謝しなければならない」

「助けは、当然じゃない」

という、使いやすい教訓だった。

 

やがて噂は、別の町へ渡る。

 

そこでは、パン屋ではなく、染物屋の話になる。

布を干すと、夜のうちに畳まれている。

染料の配合が、なぜか安定している。

 

「昔、この辺にもいたらしい」

 

誰かが、また言う。

 

その時のブローニーは、

よりゴブリンらしくなっていた。

耳は尖り、歯は増え、

目は暗闇で光ることになった。

 

善性は、少しずつ削られていく。

残るのは、恐ろしさと、便利さだ。

 

「働かせすぎると、逃げる」

「でも、うまくやれば、ずっといる」

「夜食を置いておけばいい」

 

そんな“扱い方”まで付け足される。

 

それはもはや、

あの家で起きたこととは、別のものだった。

 

教会にも、噂は届いた。

 

記録には残らない。

公式文書にも載らない。

だが、口頭では、確かに共有される。

 

「家庭精霊に深入りした若い聖務官がいた」

「見てしまったらしい」

「それで、消えた」

 

名は伏せられる。

だが、**“まだ生きている”**という言い回しだけが、妙に強調される。

 

戒めとして、ちょうどよかった。

 

深入りするな。

理解しようとするな。

役目を超えるな。

 

イェルグは、別の土地の宿で、その話を聞いた。

 

煙草に火をつけ、煙を吐き、

噂が語られる方向だけを見ている。

 

訂正はしない。

否定もしない。

 

噂は、止めようとすると、逆に強くなることを知っていた。

 

隣で、ルーネは黙っている。

 

彼の中には、

布巾を畳む小さな手の動きが、

今でもはっきり残っている。

 

だが、それを語る言葉は、もうない。

 

語れば、噂になる。

噂になれば、また別の形で使われる。

 

夜、別の町で、誰かが言う。

 

「ここにも、出るらしいぞ」

 

それが警告なのか、

期待なのか、

あるいは願いなのか、

誰にもわからない。

 

ただ一つ確かなのは、

人が働きすぎる限り、

“よく働く噂”は、決して消えないということだった。

 

事実は、静かに土に還る。

だが、伝承は、手足を伸ばし、

今日もどこかで、きちんと仕事をする。

 

――それが、この世界のやり方だった。

 

 

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