検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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検死

第二十ニ話 検死

 

検死は、祈りから始まらない。

 

それはイェルグが、教会に属しながらも変えなかったやり方だった。

死体に向き合う前に言葉を与えると、

人はどうしても、見たいものだけを見る。

 

だからまず、布をかける。

次に、道具を並べる。

そして、沈黙を作る。

 

「……冷え方が、均一ですね」

 

ルーネが言った。

 

声を潜めているのは、死者のためというより、

この場にある空気を壊さないためだった。

 

「死後、あまり時間は経っていない」

 

イェルグは淡々と応じる。

 

「だが、硬直の入り方が早い。

 熱が抜けたというより、

 役目を終えたみたいだ」

 

その言い回しに、ルーネは眉をひそめる。

だが否定はしなかった。

 

布をめくる。

 

小さな体。

骨ばった肩。

皮膚の色は、病死としては不自然ではない。

 

最初の一刻ほどは、

“何もおかしくない”時間が続いた。

 

肺に異物はない。

喉にも、争った痕跡はない。

内出血も、外傷も見当たらない。

 

「……本当に、病で」

 

ルーネが言いかけたところで、

イェルグが手を止める。

 

「歯だ」

 

「え?」

 

「歯を見ろ」

 

乳歯は揃っている。

抜け落ちる時期でもない。

 

だが、摩耗がある。

 

「……これ」

 

ルーネが息を飲む。

 

「硬いものを、

 噛み切った痕ですか?」

 

「そうだ」

 

「五歳の子どもが?」

 

イェルグは答えない。

代わりに、指を動かす。

 

腹部を開く。

丁寧に。

乱暴な手つきはしない。

 

そこから、決定的な異常は出てこない。

 

ただ、合わない。

 

すべてが、ほんの少しずつ。

 

肝臓の位置が、教本より指一本分ずれている。

腸の折り畳みが、妙に規則的すぎる。

筋肉の付き方が、幼児のそれではない。

 

「……人間です」

 

ルーネが言う。

 

「間違いなく」

 

「そうだ」

 

イェルグは頷く。

 

「だが、“人間の子ども”ではない」

 

ルーネは、言葉を探す。

 

「……育って、いない?」

 

「近いな」

 

イェルグは手を止め、煙草を取り出しかけて、やめた。

この場では、吸わない。

 

「これはな、

 人間の形をして、人間の役割を果たしていたものだ」

 

ルーネの背筋に、冷たいものが走る。

 

「役割……?」

 

「家族の中で、

 “子ども”という役割をな」

 

沈黙が落ちる。

 

道具の音だけが、小さく鳴る。

 

「……チャングリング、ですか」

 

ルーネが、ようやく言葉にする。

 

イェルグは否定も肯定もしない。

 

「その言葉は、便利すぎる」

 

「でも……」

 

「昔の人間はな」

 

イェルグは、淡々と語る。

 

「子どもが早く死ぬと、

 耐えられなかった」

 

「だから、こう考えた」

 

本当の子は、

妖精の国で、

永遠に幸福でいる。

 

「代わりに残ったのは、

 “よく働く、手のかからない子”だった」

 

ルーネは、喉が渇くのを感じる。

 

「それって……

 すり替えられた、って話じゃ……」

 

「違う」

 

イェルグは静かに遮る。

 

「落としどころを作ったんだ」

 

「現実に、耐えるために」

 

解剖は、終わりに近づく。

 

致命傷は見つからない。

病変はある。

だが、それは原因というより、

終わりに向かうための理由だ。

 

「この子は」

 

イェルグが言う。

 

「死んだんじゃない。

 役目を終えた」

 

ルーネは、言葉を失う。

 

「……じゃあ」

 

震える声で、問う。

 

「この家族は、

 ずっと、何を――」

 

「家族だった」

 

イェルグは、はっきり言った。

 

「血縁じゃなくても、

 代わりでも、

 祈りから生まれた存在でも」

 

「この家の中では、

 家族だった」

 

検死が終わる。

 

布が戻される。

 

部屋は、元の静けさを取り戻す。

 

外に出ると、夕方の光が差していた。

家の前では、両親が待っている。

 

「……どうでしたか」

 

母親が尋ねる。

 

イェルグは、少し考えてから答える。

 

「苦しみは、少なかった」

 

それは、事実だった。

 

「それだけ、ですか」

 

父親が聞く。

 

イェルグは、頷く。

 

「それ以上は、

 誰のためにもならない」

 

二人は、深く頭を下げた。

 

礼なのか、

それとも、

これ以上知りたくないという合図なのか。

 

ルーネは、家を離れながら、胸が重くなるのを感じていた。

 

「……正しいんですか」

 

「何がだ」

 

「言わないことが」

 

イェルグは、歩きながら煙草に火をつけた。

 

「正しさはな」

 

煙を吐く。

 

「生きている側のためにある」

 

「死んだものの真実は、

 使いどころを間違えると、

 ただの刃になる」

 

夕焼けの中、家は静かに佇んでいる。

 

その中で確かに過ごされた、

五年分の時間だけが、

誰にも否定されずに残っていた。

 

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