検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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祈りの居場所

第二十四話 祈りの居場所

 

村を離れる朝は、驚くほど普通だった。

 

霧が低く垂れて、

道は湿り、

車輪の跡がゆっくりと消えていく。

 

誰も見送りには来ない。

それが、この村なりの礼だった。

 

「……終わった、んですよね」

 

馬車に揺られながら、ルーネが言う。

 

問いというより、

自分に言い聞かせる声だった。

 

「記録上はな」

 

イェルグは短く答える。

煙草に火をつけ、朝の空気に煙を混ぜる。

 

「病死。

 再発性なし。

 介入不要」

 

「……それだけで」

 

「それだけだ」

 

馬車は進む。

村は、霧の向こうに溶けていく。

 

ルーネは、膝の上で指を組んだ。

 

あの子の顔を、思い出そうとする。

だが、輪郭が曖昧になる。

 

はっきり思い出せるのは、

手の動きだけだった。

 

布を整える指。

余分な動きをしない、静かな所作。

 

「……本当の子は」

 

ぽつりと、ルーネが言う。

 

「妖精の国で、

 幸せに生きている、って話」

 

イェルグは否定しない。

 

「そう思わなきゃ、

 やっていけなかったんだろうな」

 

「嘘、ですよね」

 

「たぶんな」

 

煙を吐く。

 

「だが、

 必要な嘘だ」

 

馬車が、小さな橋を渡る。

川は穏やかで、

何も境界を主張していない。

 

「……じゃあ」

 

ルーネは、少し迷ってから聞く。

 

「僕たちは、

 祈りを壊さなかったんですか」

 

イェルグは、すぐには答えなかった。

 

しばらく、馬の足音だけが続く。

 

「壊していない」

 

やがて、そう言った。

 

「ただ、

 どこにも移さなかった」

 

「教会にも、

 記録にも、

 噂にもな」

 

ルーネは、その意味を考える。

 

祈りは、

掲げれば、形を変えられる。

名前を与えれば、管理できる。

 

だが、

どこにも属さないものは、

そっと消えるしかない。

 

「……それで、よかったんでしょうか」

 

「わからん」

 

イェルグは即答した。

 

「だが、

 少なくとも、

 あの家族は、

 自分たちのやり方で別れられる」

 

馬車は、分かれ道に差しかかる。

 

振り返れば、

もう村は見えない。

 

その日の午後、

教会には短い報告が届いた。

 

異常なし。

危険性なし。

処理完了。

 

それ以上の言葉は、ない。

 

聖務官の一人が、

書類を閉じながら言った。

 

「……随分と、静かな事件だ」

 

別の者が答える。

 

「静かな方がいい」

 

「名前がつかないなら、

 それでいい」

 

その会話は、記録されない。

 

ただ、

どこかで誰かが、

ふと思い出すだけだ。

 

「昔、

 手のかからない子がいた家があった」

 

「いい子だったらしい」

 

それ以上は、語られない。

 

夜、宿で。

 

ルーネは、眠れずに目を開けていた。

 

闇の中で、

何かが働く音を探してしまう。

 

だが、何も聞こえない。

 

「……もう、いないんですよね」

 

独り言のように言う。

 

隣の部屋から、

イェルグの低い声が返る。

 

「いない」

 

「……でも」

 

「いる」

 

その矛盾を、

説明する言葉はない。

 

ルーネは、目を閉じる。

 

本当の子が、

妖精の国で幸せに生きているかどうかは、

誰にもわからない。

 

だが、

ここで家族として過ごした時間まで、

嘘だったとは、

ルーネは思えなかった。

 

朝が来る。

 

次の仕事がある。

次の死体がある。

次の境界が、待っている。

 

イェルグは煙草に火をつけ、

何事もなかったように立ち上がる。

 

ルーネも、それに続く。

 

祈りは、

記録には残らない。

 

だが、

どこにも行かなかったぶん、

確かに、ここに留まっていた。

 

――それで、十分だった。

 

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