検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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殴られなかった夜
守るという名前


第二十五話 守るという名前

 

その家は、手入れが行き届いていた。

 

柵は低いが壊れていない。

庭には雑草が少なく、

薪は乾いたものと湿ったものに分けて積まれている。

 

――ちゃんとした家だ。

誰もが、そう言うだろう。

 

「いいご両親ですよ」

 

最初にそう言ったのは、隣家の女だった。

声には、疑いよりも安心が混じっている。

 

「熱心でね。

 あの子のこと、よく見てた」

 

イェルグは、相槌を打つだけだった。

ルーネは、家の窓に目をやる。

 

内側から、板が打ち付けられている。

完全に塞いではいないが、

外からは中が見えにくい。

 

「……いつから、いなくなったんですか」

 

「三日前です」

 

父親が答える。

背筋は伸び、声も落ち着いている。

 

「朝起きたら、

 部屋にいなかった」

 

母親は、布を握りしめていた。

その指先は赤く、

爪は短く切り揃えられている。

 

「この子は、外に出たがらなかったんです」

 

母親が言う。

 

「だから、

 きっと、誰かに連れていかれた」

 

イェルグは、部屋を見渡す。

 

寝台は小さい。

だが、逃げ出せないほどではない。

 

床には、引きずられた痕跡はない。

争った形跡もない。

 

「……厳しく、躾けていましたか」

 

ルーネが、慎重に尋ねる。

 

父親は、少しだけ眉をひそめた。

 

「躾です」

 

即答だった。

 

「愛情ですよ」

 

母親も続ける。

 

「この子は、

 すぐに覚えが悪くて」

 

「放っておくと、

 変な癖がつくでしょう?」

 

イェルグは、壁際の棚を見る。

紐。

細い木片。

用途を説明できる程度に、揃えられている。

 

「夜は?」

 

「外に出ないように、

 戸を閉めていました」

 

「危ないから」

 

それもまた、

誰も否定できない理由だった。

 

ルーネの喉が、少し鳴る。

 

「……泣きませんでしたか」

 

母親は、少し考えてから首を振る。

 

「最初は」

 

「でも、

 すぐ静かになりました」

 

それは、誇らしげでもあり、

どこか安堵したような声だった。

 

家の中には、

子どもの声が残っていない。

 

玩具はある。

だが、使い込まれた跡は少ない。

 

――使う時間が、許されていなかった。

 

イェルグは、煙草を取り出しかけて、やめた。

この家は、煙すら嫌っている。

 

「……この子は」

 

彼は、両親を見て言う。

 

「大事にされていた」

 

二人は、深く頷く。

 

「ええ」

 

「もちろんです」

 

「守っていたんです」

 

その言葉に、

嘘はなかった。

 

問題は、

何から守っていたのかだ。

 

家を出ると、

空気が少し軽くなる。

 

「……あれは」

 

歩きながら、ルーネが言う。

 

「虐待、ですよね」

 

イェルグは、すぐに答えない。

 

「……愛情だ」

 

やがて、そう言った。

 

「歪んだが、

 本物だ」

 

「だから、余計に厄介だ」

 

ルーネは、足を止める。

 

「守るって、

 囲うことじゃないですよね」

 

「そう思えるのは、

 外に出られる人間だからだ」

 

イェルグは続ける。

 

「怖いものが多すぎると、

 人は、

 狭い檻を安全だと思い込む」

 

森の方から、風が吹く。

木々が、ざわりと揺れる。

 

「……森に?」

 

ルーネが、小さく言う。

 

イェルグは、何も言わない。

だが、視線は確かに森を向いていた。

 

そこには、

人の生活圏から少しだけ外れた、

境界の気配がある。

 

子どもは、

逃げたのかもしれない。

 

連れ出されたのかもしれない。

 

あるいは――

守られたのかもしれない。

 

「記録は?」

 

ルーネが聞く。

 

「失踪」

 

イェルグは答える。

 

「それ以上は、

 今は書かない」

 

森は、何も語らない。

だが、

すでに何かを抱え込んでいる気配があった。

 

その静けさは、

これから血を見るためのものではない。

 

誰かを、返さないための静けさだった。

 

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