検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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森の家

第二十六話 森の家

 

森は、思っていたよりも静かだった。

 

獣の気配はある。

鳥の声も、風の音もする。

だが、人を拒むほど荒れてはいない。

 

「……整ってますね」

 

ルーネが、足元を見ながら言う。

 

踏み固められた小径。

意図的に避けられた若木。

刃物で切られた跡のある枝。

 

「生活の痕だ」

 

イェルグは低く答える。

 

煙草に火をつける。

森の湿った空気の中で、煙はすぐに薄れる。

 

「ここは、

 “隠れるための森”じゃない」

 

「住むための……」

 

「そうだ」

 

歩くにつれて、

匂いが変わる。

 

土と葉の匂いに、

わずかに、煮炊きの残り香が混じる。

 

小さな空き地があった。

 

倒木を利用した簡素な囲い。

布切れで作られた屋根。

雨を逃がす溝。

 

「……家、ですね」

 

ルーネの声は、自然と小さくなる。

 

家と呼ぶには、頼りない。

だが、

眠る場所としては、十分すぎるほどだった。

 

中には、いくつかの痕跡があった。

 

乾かされた根菜。

小さな木皿。

繕われた衣服。

 

そして――

子どもの靴。

 

片方だけ。

 

「……急いで、出たわけじゃない」

 

ルーネが言う。

 

「連れてこられた、

 でも、乱暴ではない」

 

イェルグは頷く。

 

「抵抗した形跡もない」

 

「むしろ……」

 

視線を巡らせる。

 

「慣れている」

 

この場所に。

 

家の奥、

布で仕切られた空間に、

小さな寝床がいくつも並んでいた。

 

数は、ひとつではない。

 

「……一人じゃない」

 

ルーネの喉が鳴る。

 

「過去にも、

 ここに来た子どもがいる」

 

「今は?」

 

「わからん」

 

イェルグは、しゃがみ込む。

 

寝床の高さ。

毛布の重ね方。

風を避ける向き。

 

「……丁寧ですね」

 

ルーネが言う。

 

それは、否定しがたい事実だった。

 

乱暴な誘拐犯の痕ではない。

飢えさせる者の痕でもない。

 

「守っている」

 

ルーネは、思わずそう口にする。

 

イェルグは、否定しなかった。

 

ただ、こう付け加える。

 

「囲っている」

 

外からは、森が見える。

中からは、外が見えにくい。

 

――あの家と、同じだ。

 

「……じゃあ、ここは」

 

ルーネの声が、少し震える。

 

「檻、ですか」

 

イェルグは、少し考えてから答える。

 

「檻にもなる」

 

「だが、

 外より安全な檻もある」

 

それが、

正しいかどうかは、別の話だ。

 

そのとき、

奥から、音がした。

 

布が擦れる音。

小さな、息遣い。

 

「……いる」

 

ルーネが、息を詰める。

 

イェルグは、手で制した。

 

ゆっくりと、

音を立てないように近づく。

 

布の向こうに、

小さな影が動く。

 

子どもだ。

 

痩せてはいるが、

衰弱してはいない。

 

目は、こちらを見ている。

怯えはあるが、

恐慌ではない。

 

その背後に、

もう一つ、影があった。

 

老女の輪郭。

 

背は低く、

体は痩せている。

 

髪は乱れているが、

汚れてはいない。

 

その存在は、

敵意を向けない。

 

ただ、

動かない。

 

イェルグは、剣に手を伸ばさない。

ルーネも、祈りの言葉を呑み込む。

 

「……連れ戻すべき、ですよね」

 

ルーネが、かろうじて言う。

 

イェルグは、老女ではなく、

子どもを見る。

 

その目は、

家にいた頃より、

ずっと静かだった。

 

「“べき”はな」

 

低く、言う。

 

「後で、山ほど出てくる」

 

老女――ブラック・アニスは、

何も言わない。

 

だが、その視線は、

確かにルーネを見ていた。

 

そして、

まるで確認するように、

一度だけ、頷いた。

 

お前は、

まだ、奪わない。

 

その意味を、

誰も言葉にしない。

 

森の中で、

家は、今日も息をしている。

 

それが、

優しさなのか、

罪なのか。

 

答えは、

まだ、ここにはなかった。

 

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