第二十七話 名を与えるということ
森を出たあと、二人はすぐには村へ戻らなかった。
小川のそば、苔の厚い岩に腰を下ろす。
水音は一定で、考えを急かさない。
イェルグは煙草に火をつけた。
火種が一瞬だけ明るくなり、すぐに落ち着く。
「……さっきの」
ルーネが口を開く。
「彼女、ですよね」
「そうだ」
「魔物……?」
イェルグは、少し考えてから答えた。
「怪異だな。
魔物というには、
人に寄りすぎている」
煙を吐く。
「ブラック・アニス」
その名を、
森に投げるように言う。
ルーネは、その響きを反芻する。
「……聞いたことはあります」
「子どもを攫う魔女」
「喰う、とも」
「そう語られている」
イェルグは否定しない。
「だが、
ああやって生きている痕を見ると、
話は変わる」
「本来の伝承ではな」
イェルグは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ブラック・アニスは、
人の家の外に立つ存在だ」
「母であり、
母ではない」
「家族を壊すが、
家族になろうとはしない」
ルーネは、膝の上で手を握る。
「……守るために、
奪う」
「そうだ」
「彼女は、
“大人から子どもを引き離す”」
「それだけに、特化した怪異だ」
ルーネの脳裏に、
あの家の窓が浮かぶ。
板で塞がれた、
内向きの視線。
「でも……」
言葉が、少し震える。
「それって、
正しいことなんでしょうか」
イェルグは、即答しない。
「正しさで測ると、
彼女は常に間違っている」
「だが」
煙を吸う。
「彼女が現れる場所は、
決まって“すでに歪んでいる”」
「誰もが、
守っているつもりで、
壊している場所だ」
沈黙。
小川の水音が、
その隙間を埋める。
「……名前を知ると」
ルーネが言う。
「連れ戻さなきゃ、
いけない気がしてきます」
「それが、
名を与えるということだ」
イェルグは静かに言う。
「名は、
対処のためにある」
「教会にとって、
ブラック・アニスは
排除すべき存在だ」
「じゃあ……」
「できる」
イェルグは遮る。
「連れ戻せる」
「正規の手続きを踏めば、
討伐も可能だ」
ルーネは、目を伏せる。
「……あの子は」
「壊れる」
即答だった。
「家に戻れば、
“守られる名目”で、
もっと狭い場所に閉じ込められる」
「森に残れば?」
「社会的には、
死んだままだ」
ルーネは、息を吐く。
どちらも、救いではない。
「……じゃあ」
「まだ、選ばない」
イェルグは言った。
「今は、
境界に置いておく」
「彼女も、
それを望んでいる」
ルーネは顔を上げる。
「……分かるんですか」
「長く見てきた」
イェルグは答える。
「ブラック・アニスは、
追われることには慣れている」
「だが、
無理に連れ戻される子どもを見るのは、
嫌う」
「……優しい、ですね」
ルーネの声は、
少しだけ安堵を含んでいた。
「優しさじゃない」
イェルグは否定する。
「役割だ」
「彼女は、
そういう役割に、
なってしまった」
その日の夕方、
二人は村に戻る。
両親は、まだ希望を持っている。
教会も、まだ動いていない。
「記録は?」
ルーネが聞く。
「失踪、継続」
イェルグは答える。
「森に異常あり。
立ち入り注意」
「……それだけ?」
「それだけだ」
名は、記録に残さない。
名を残せば、
対処が始まる。
夜、宿で。
ルーネは、眠る前に考える。
森の中の、
あの小さな寝床。
名前を呼ばれない子ども。
だが、殴られない日々。
「……正しいことを、
しているんでしょうか」
問いは、宙に浮かぶ。
隣の部屋から、
イェルグの声がする。
「正しいことは、
あとから決めるものだ」
「今はただ、
壊さないことを選べ」
ルーネは、目を閉じる。
森は、今夜も静かだ。
ブラック・アニスは、名を持たないまま、
役割を続けている。
そして、
それを見てしまった者たちは、
もう、元の場所には戻れない。
――それでも、
まだ、終わりではなかった。