第二十八話 返さない選択
その日は、曇っていた。
雨になるほどではないが、
光は鈍く、影がはっきりしない。
連れ戻す準備は、整っていた。
教会からは、祈祷隊が一人。
正式な命令書はないが、
「確認」という名目なら、十分だった。
「……行けば、連れ戻せますよね」
森へ向かう途中、
ルーネが言った。
声は落ち着いている。
もう、答えが出ている人間の声だ。
「できる」
イェルグは認める。
「子どもは抵抗しないだろう」
「彼女も……」
「逃げる」
即答だった。
「ブラック・アニスは、
争わない」
「守れないと分かれば、
姿を消す」
森に入る。
小径は、まだ残っている。
だが、昨日よりも、
踏み跡が薄い。
「……準備してる」
ルーネが気づく。
「そうだ」
森の家は、
少しだけ、変わっていた。
寝床は減り、
物は最小限になっている。
――長居するつもりは、ない。
布の向こうに、
子どもがいた。
こちらを見る目は、
もう、怯えていない。
理解している目だった。
「……帰るか」
イェルグは、そう聞いた。
命令でも、誘いでもない。
子どもは、少し考えてから、
首を振った。
声は出さない。
だが、その意思は、
はっきりしている。
その背後に、
ブラック・アニスが立っていた。
今日は、近い。
老女の姿は、
より人に寄っている。
「お前は」
彼女は、ルーネを見る。
「奪わない」
断定だった。
「……はい」
ルーネは、答える。
祈りの言葉は、
口にしない。
「この子は、
ここを選びました」
それだけ言う。
イェルグは、
祈祷隊の男に視線を向ける。
「異常は確認できない」
「危険性も、今は低い」
祈祷隊は、迷った。
だが、
子どもの目を見て、
視線を逸らした。
「……報告は、失踪のままに」
それが、彼の限界だった。
森を出るとき、
ルーネは振り返らなかった。
見れば、
戻りたくなる。
見なければ、
選択は続く。
数日後。
村では、噂が広がる。
「森に、魔女がいる」
「子どもを喰ったらしい」
「だから、あの子はいない」
噂は、
便利な形に歪む。
真実を知る必要のない人間のために。
記録には、
こう残った。
子ども一名、失踪。
森に不穏な気配あり。
立ち入り注意。
ブラック・アニスの名は、
どこにも書かれない。
名を失えば、
追われない。
それを知っているのは、
ほんの数人だ。
夜、宿で。
ルーネは、窓の外を見る。
森は、ただ暗い。
「……僕は」
「後悔するか?」
イェルグが、煙草をくわえたまま聞く。
「……分かりません」
「それでいい」
火をつける。
「後悔できるってことは、
まだ、人だ」
「彼女は、
もう、後悔しない」
ルーネは、静かに息を吐く。
「……血縁じゃなくても、
居場所は、ありましたね」
「そうだ」
「だが、
それを認める場所は、
この世界には少ない」
煙が、天井へ消える。
「だから、
境界が必要になる」
森と村のあいだ。
記録と噂のあいだ。
救いと放置のあいだ。
そこに、
ブラック・アニスは立っている。
翌朝、二人は旅立つ。
森は、
いつも通り、そこにある。
子どもがいるかどうかは、
もう、誰にも分からない。
ただ、
誰も殴られない夜が、
ひとつ、続いている。
それだけで、
この事件は終わった。
解決はしていない。
正しくもない。
だが、
壊さなかった。
検死官の仕事としては、
それで十分だった。