第二話 皮膚のないもの
イェルグは、地面に残った痕を見ていた。
水が引いたあとのような跡。
だが、湿り気はない。
代わりに、土が死んでいる。
踏めば崩れ、
掴めば指に残る。
「……作物、育たないな」
独り言のように呟く。
護衛兵は、剣を下ろしたまま、
まだ息が荒い。
「さっきの……あれ、
本当にヌックなんですか?」
「ええ」
イェルグは頷く。
「正確には、
ナックラヴィーに近い」
兵が顔をしかめる。
「そんなの……
話の中の怪物でしょう。
不作とか、病気とか……」
「ええ。
だから、
死体が一体で済むなら、
まだいい」
イェルグは、しゃがみ込み、
自分の外套の溶けた端を指で触れた。
皮革が、
腐ったように崩れる。
「皮膚がない」
ぽつりと、言う。
「……え?」
「本来のナックラヴィーは、
皮膚を持たない。
筋肉が、
むき出しです」
彼の視線は、
まだそこに“あったもの”をなぞっている。
「だから、
体液も、
息も、
毒になる」
兵は、背中をさすった。
「見たこと、あるんですか?」
イェルグは、少しだけ考える。
「……全部は」
それは、嘘ではない。
だが、真実でもない。
彼は、
頭が異様に重く揺れる影を、
赤く、
燃えるような一つ目を、
直接“見た”わけではない。
だが。
「死体を、
何体も、
見てきました」
それで、十分だった。
イェルグは立ち上がり、
周囲を見回す。
風向き。
地形。
そして――
「川が、近い」
兵が、はっとする。
「え?」
「淡水を嫌う。
それは、
伝承じゃない」
イェルグは、
地面に残った痕を指す。
「ここから先、
来ていない」
見えない線。
だが、
確かに、
越えていない。
「……じゃあ、
どうして、
ここまで?」
イェルグは、
死体の手から、
赤い布切れを拾い上げる。
乾いている。
だが、
潮の匂いが、
ほんのわずかに残っている。
「呼ばれた」
兵が、声を失う。
「ナックラヴィーは、
海のものです。
水の境界を、
勝手には越えない」
イェルグは、布を見つめたまま続ける。
「操られることは、
ある」
「……誰に?」
イェルグは、すぐには答えなかった。
煙草を取り出し、
火をつける。
煙が立ち、
風に流れる。
「海のミザー、
という話もあります」
伝承の名。
だが、
それを信じている者の口調ではない。
「でも、
この場合は……」
彼は、煙を吐いた。
「人でしょう」
沈黙。
「魔物は、
理由なく境界を越えない」
イェルグは、
死体に向き直る。
「理由を与えたのが、
誰かがいる」
彼は、ナイフを収めた。
「だから、
これは事故じゃない」
兵は、
ようやく理解したように、
ゆっくりと頷いた。
「……検死官って、
もっと、
静かな仕事だと思ってました」
イェルグは、
ほんの一瞬だけ、
口の端を歪めた。
「静かですよ」
「え?」
「死体は、
喋りませんから」
彼は、川の方角を見た。
水は、
まだ、
流れている。
「……間に合えば、
いいんですが」
何に、とは言わなかった。
ただ、
この死が、
土地を殺す前に。
そして、
ナックラヴィーが、
“本来の姿”を現す前に。
煙が、
消えた。