検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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森に棲む話

第二十九話 森に棲む話

 

あの村では、

子どもがいなくなった話は、

すぐに「終わった話」になった。

 

人は、終わらせられる形でしか、

不安を抱えられない。

 

だから噂は、

自然と形を整えていく。

 

「森に、魔女がいる」

 

それが、最初の一文だった。

 

「黒い顔をしていて、

 夜に子どもを攫う」

 

「鍋で煮て、

 骨を埋める」

 

話は、どんどん具体的になる。

具体的になるほど、

安心できるからだ。

 

「だから、

 あの子は死んだ」

 

そう言われるようになったのは、

それほど時間がかからなかった。

 

死んだことにすれば、

悲しみは一度で済む。

 

連れ戻せなかった理由も、

考えなくていい。

 

森は、

近づいてはいけない場所になった。

 

子どもは、

行ってはいけないと教えられた。

 

「ブラック・アニスに攫われるぞ」

 

その名は、

いつの間にか使われるようになる。

 

誰も、

彼女が何をしたかは知らない。

 

ただ、

怖い存在であることだけが残る。

 

――それで、噂は完成する。

 

一方で、

森の縁に住む者たちは、

別のことを囁いた。

 

「夜、泣き声がしない」

 

「前より、静かだ」

 

「……あそこに近づくと、

 変な安心感がある」

 

それは、大きな声にはならない。

声を張るほどの話ではないからだ。

 

教会の記録には、

変化はない。

 

失踪事件、未解決。

魔性の存在の可能性あり。

注意喚起のみ。

 

それ以上、

追記はされなかった。

 

名が残らなければ、

対処も残らない。

 

イェルグは、

その後、二度とあの森を訪れなかった。

 

必要が、なかった。

 

必要になるということは、

何かが壊れたということだからだ。

 

ルーネは、

別の村で、別の死体を見ている。

 

それでも、

夜、眠れないときがある。

 

夢の中で、

森の家が出てくる。

 

子どもが、

名前を呼ばれずに座っている。

 

だが、

殴られない。

 

怒鳴られない。

 

それだけの夢だ。

 

「……生きてると、いいな」

 

ルーネは、

誰にも聞こえない声で言う。

 

イェルグは、答えない。

 

煙草に火をつけ、

煙を吐くだけだ。

 

生きているかどうかは、

重要じゃない。

 

誰にも連れ戻されていない

――それだけが、

あの選択の意味だった。

 

数年後。

 

旅人の間で、

こんな話が流れる。

 

「森に、

 子どもを守る魔女がいるらしい」

 

「悪い大人から、

 隠してしまうんだと」

 

それを聞いた別の者が、笑う。

 

「馬鹿言え。

 子どもを喰う魔女だ」

 

噂は、

いつも二つに割れる。

 

どちらが正しいかは、

誰も気にしない。

 

大事なのは、

自分が、どちらを信じるかだ。

 

森は、今日も森だ。

 

誰も入らない。

誰も確かめない。

 

その奥で、

子どもが笑っているかどうかは、

もう、物語にならない。

 

物語にならないものだけが、

境界の向こうに、

確かに残っている。

 

――それで、この話は終わる。

 

名前は残らない。

解決もしない。

 

ただ、

噂だけが、

今日も誰かを安心させている。

 

そして、

それを選んだ人間たちは、

次の事件へ向かう。

 

静かに、

何もなかった顔をして。

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