失われた名前
第三十話 失われた名前
沼は、夜になると境界になる。
水と土のあいだ。
踏み込めば沈み、戻ろうとすれば足を取られる場所。
この土地では、昔からそう言われていた。
イェルグが呼ばれたのは、その沼の縁だった。
「……あそこなんです」
女は、同じ方向を何度も指した。
指先は震えていない。
泣き腫らした目だけが、少し赤い。
「光が、出るんです。
夜になると……あの辺りに」
彼女は、母親だった。
年は三十に届くかどうか。
服は清潔だが、丁寧すぎるほどに整えられている。
乱れないよう、崩れないよう、
ずっと気を張ってきた人間の身なりだった。
「それは、いつから」
イェルグは、手帳を開かない。
まず、声を聞く。
「……子どもが、いなくなってから」
名前を言おうとして、
女は一瞬、口を閉じた。
「……あの子が」
それ以上は、言えなかった。
ルーネは、少しだけ視線を落とす。
こういう沈黙は、
埋めようとすると、壊れる。
沼は、静かだった。
昼間はただの湿地だ。
草が伸び、虫が鳴き、
誰もが「危ないが、珍しくはない」と言う場所。
だが、夜になると話が変わる。
「道を、教えてくれるみたいで……」
女は言う。
「迷ってると、
ほら、ああやって……」
彼女の視線の先で、
沼の奥に、淡い光が浮かんだ。
青白く、揺れている。
炎のようで、炎ではない。
風に逆らい、
水面から離れた位置にある。
「……見える」
ルーネが、息を詰める。
「怖く、ないんです」
女は、はっきり言った。
「むしろ……
あの子みたいで」
イェルグは、光から目を離さない。
この時点では、
まだ事件ではない。
死体も、傷も、
記録すべき「結果」がない。
あるのは、
探している母親と、
導く光だけだ。
「夜に、そこへ行きましたか」
「……何度も」
「入った?」
「……少しだけ」
沼の縁には、
新しい足跡があった。
何度も往復した跡。
躊躇と、決意が混ざった歩き方。
「戻れなくなりそうで……
でも、あの光が……」
女は、胸元を押さえる。
「帰り道を、
教えてくれる気がしたんです」
ルーネは、違和感を覚える。
光は、
「帰り道」に向かっていない。
沼の、
より深い方へ。
「……洗礼は」
イェルグが、静かに聞いた。
女は、一瞬、固まった。
「……間に合いませんでした」
声が、掠れる。
「生まれてすぐ……
熱が……」
言い訳ではない。
事実を、何度もなぞった声だ。
イェルグは、そこで初めて、
手帳を開いた。
「分かりました」
それだけ言う。
女は、すがるように頷く。
「探して……もらえるんですね」
「記録します」
イェルグは、言葉を選ぶ。
「起きていることを」
助けるとも、
連れ戻すとも、
約束しない。
その方が、
この世界では誠実だ。
夜が深まるにつれて、
光は、少しずつ増える。
一つではない。
小さな、
揺れる光が、点々と。
まるで、
誰かが通った道を、
なぞるように。
「……あの子は、迷ってるんです」
女が、言う。
「だから、
私を呼んでる」
イェルグは、答えない。
ルーネは、光を見る。
胸の奥が、
理由もなく、ざわつく。
これは、
始まりだ。
まだ誰も死んでいない。
まだ、善意しかない。
それでも、
沼は境界を開いている。
光は、
もう一度だけ、強く揺れた。
まるで、
「ここだ」と言うように。