第三十一話 導かれる足取り
夜の沼は、昼よりも静かだった。
虫の声が遠のき、
水の表面が、呼吸をやめたみたいに凪いでいる。
女は、ランタンを持たなかった。
「光が、見えなくなるから」
それが理由だった。
イェルグは、止めなかった。
止める言葉は、今はまだ嘘になる。
沼の縁に立つと、
あの光は、すぐに現れた。
昨日より、近い。
青白く、
まるで待っていたかのように。
「あ……」
女の声が、わずかに弾む。
光は、揺れながら、
一つ奥へ移動する。
誘う、というより――
確かめている。
「……歩幅が、合ってる」
ルーネが、低く呟く。
母の歩調に合わせて、
光が進む。
早すぎない。
遅すぎない。
子供と歩くときの、
あの速度だ。
女は、沼に足を踏み入れた。
ぐ、と音を立てて、
泥が沈む。
それでも、
引き返そうとはしない。
「ここ……」
女は、息を整える。
「ここまで、来たことがある」
記憶を辿るような声。
光が、一瞬、強く瞬いた。
肯定だ。
ルーネの背中に、
冷たいものが走る。
「……優しすぎる」
光は、危険を教えない。
ただ、進める道だけを示す。
進んだ先が、
戻れない場所でも。
イェルグは、女の足元を見る。
沈み方が、深くなっている。
「今日は、ここまでです」
静かな声だった。
女は、振り返らない。
「……もう少し」
光が、
ほんのわずか、遠ざかる。
焦らすように。
「待って……!」
女の足が、
一歩、深く沈んだ。
その瞬間、
光が止まった。
揺れもしない。
ただ、そこに在る。
まるで、
「ここまでだ」と言うように。
「……帰りましょう」
イェルグの声に、
女は、ようやく立ち止まる。
戻るとき、
光は、後ろを照らさない。
来た道は、
暗いままだ。
それでも、女は戻れた。
沼の縁に立ったとき、
光は、すっと消える。
「……あの子は」
女は、胸に手を当てる。
「迷って、ないですよね」
イェルグは、答えない。
ルーネは、沼を見る。
ここは、
誰かが“先に”迷った場所だ。
そして、
それを善意でなぞれば、
同じ場所に辿り着く。
夜が、少しだけ深くなる。
まだ、
誰も死んでいない。
それが、
逆に不安だった。
昼の教会は、沼よりも静かだった。
人の出入りはある。
祈りの声も、足音もある。
それでも、
湿地の夜より、ずっと音が少ない。
理由は簡単だ。
ここでは、感情が音を立てない。
イェルグは、帳簿をめくっていた。
厚い紙。
乾いた指触り。
年月を経て、角が丸くなった革表紙。
「出生記録は……ここだ」
司祭補の男が、淡々と示す。
声には、善意も悪意もない。
事務だ。
名前。
生年月日。
両親の名。
母の名前が、そこにあった。
「……死亡記録」
ページが、進む。
日付は、出生から数日後。
原因は、熱性の衰弱。
よくある。
ありふれている。
「洗礼は?」
イェルグの問いに、
司祭補は、紙を見たまま首を振る。
「記載がありません」
それだけ。
間に合わなかった。
遅れた。
選べなかった。
事情は、どれも同じ扱いだ。
ルーネは、背後から帳簿を覗く。
文字は、整っている。
乱れがない。
生と死が、
同じ太さの線で書かれている。
「……この空白は」
ルーネが、ぽつりと言う。
「空白ではありません」
司祭補は、即答した。
「未登録です」
意味は、同じようで、
少しだけ違う。
「救済の記録がない、というだけです」
救済。
その言葉が、
妙に重く、机の上に落ちた。
イェルグは、帳簿を閉じる。
「つまり」
静かに言う。
「この子は、
ここには“入っていない”」
司祭補は、否定しない。
「教義上は」
そう付け足す。
教義上。
人が死ぬ理由は、
紙の上では、いつも十分だ。
教会を出ると、
日差しが、やけに明るかった。
沼の夜より、
ずっと、残酷に。
「……あの光」
ルーネが言う。
「子供、なんですよね」
イェルグは、歩きながら答える。
「可能性が高い」
「悪い、存在ではない?」
「悪意は、ないだろう」
断定しない。
だが、否定もしない。
「ただ」
イェルグは、一拍置く。
「洗礼を受けていない子供は、
戻る場所を知らない」
救われなかったのではない。
最初から、
行き先を教えられていない。
「……それで、人を導く?」
「自分が歩いた道しか、
知らないからな」
ルーネは、息を呑む。
それは、
優しさの形をした、罠だ。
夕方、母の家を訪ねる。
女は、疲れていたが、
顔色は、昨日より良い。
「……あの光」
彼女は、穏やかに言う。
「今日は、見ませんでした」
安堵と、
わずかな不安が混じった声。
「夜になると、また出ます」
断言だった。
信仰に近い。
イェルグは、言葉を選ぶ。
「……洗礼のことを、
覚えていますか」
女の手が、止まる。
「責めているわけではない」
すぐに続ける。
「記録の話です」
女は、ゆっくり頷いた。
「……間に合わなかった」
何度も、
自分に言い聞かせた言葉。
「だから……
あの子は、迷っているんですか」
その問いに、
イェルグは、答えない。
代わりに、こう言った。
「導くものは、
必ずしも、帰り道を知っているとは限らない」
女は、黙った。
理解したわけではない。
だが、拒んでもいない。
夜が、近づく。
沼に、
また光が浮かぶだろう。
それは、
救いを知らない魂であり、
善意のまま、人を深みに連れていく存在。
そして、
まだ誰も死んでいない。
それが、
そろそろ不自然になる頃だった。