検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

33 / 131
善意の痕跡

第三十二話 善意の痕跡

 

夜の沼は、昨日よりも深かった。

 

水位が上がったわけではない。

沈む感触が、はっきりしただけだ。

 

足を置く場所を誤れば、

二度目はない。

そういう静けさが、

地面の下から伝わってくる。

 

母は、昨日と同じ場所に立っていた。

 

同じ時間。

同じ夜。

同じ、張りつめた顔。

 

「……出ます」

 

彼女は、言い切る。

 

予言ではない。

確信だ。

 

そして、その通りになった。

 

沼の奥、

水面すれすれの高さに、

淡い光が浮かぶ。

 

一つ。

二つ。

 

数は、昨日より多い。

 

まるで、

“通った跡”が増えたかのように。

 

「……増えてる」

 

ルーネが、小さく息を吐く。

 

光は、規則正しく並んでいる。

等間隔。

人が歩く距離だ。

 

「道、だな」

 

イェルグは、短く言う。

 

母は、ためらいなく足を踏み出す。

 

光は、進まない。

先導しない。

 

ただ、

そこに在り続ける。

 

「……待ってくれてる」

 

母は、そう解釈した。

 

だが、違う。

 

光は、待っていない。

動けないのだ。

 

ここから先へ行くには、

誰かが踏み込む必要がある。

 

人が動いて、

初めて、次が生まれる。

 

ルーネは、沼の縁に残った。

 

「……見えます?」

 

イェルグが、聞く。

 

ルーネは、首を振る。

 

「最初の一つしか……

 奥のは、薄い」

 

「条件が違う」

 

「……探してる、かどうか?」

 

イェルグは、頷く。

 

「それと、

 “信じているか”だ」

 

母の背中は、

光の列に、自然に溶け込んでいる。

 

疑いがない。

躊躇もない。

 

だから、光は、

増える。

 

イェルグは、別の場所を見る。

 

沼を迂回する、

安全な道。

 

そこには、

一つも光がない。

 

「……優しいな」

 

ルーネが、呟く。

 

「危ない道にしか、

 出ない」

 

優しさだ。

 

安全な道を示さない。

危険だからこそ、

“導く”。

 

「帰り道は、示さない」

 

イェルグが、淡々と補足する。

 

母の足が、

少し沈む。

 

それでも、

止まらない。

 

「……ここ」

 

彼女は、振り返る。

 

「この辺りで、

 あの子の声を……」

 

光が、一斉に揺れた。

 

音は、ない。

だが、

肯定のようだった。

 

ルーネの喉が、鳴る。

 

「……呼んでますね」

 

「呼んでいる、というより」

 

イェルグは、言葉を選ぶ。

 

「応答している」

 

探されている。

信じられている。

 

だから、そこに在る。

 

それ以上でも、

それ以下でもない。

 

「……戻りましょう」

 

イェルグが、声をかける。

 

母は、名残惜しそうに、

光を見る。

 

「もう少し……

 もう少しだけ……」

 

その瞬間、

足元の泥が、

大きく沈んだ。

 

音が、変わる。

 

「……っ!」

 

イェルグが、腕を掴む。

 

引き上げる。

強引に。

 

光は、

その間も、消えない。

 

助けない。

止めない。

 

ただ、在る。

 

母が、荒い息を吐く。

 

「……あの子は、

 悪いこと、してないですよね」

 

それは、

確認だった。

 

イェルグは、首を横に振る。

 

「していない」

 

断言だった。

 

「ただ、

 ここは帰る場所じゃない」

 

母は、唇を噛む。

 

理解は、している。

だが、

納得は、していない。

 

沼を離れると、

光は、少しずつ薄れる。

 

最後に残った一つが、

小さく揺れた。

 

まるで、

「また来る」と言うように。

 

ルーネは、背中に冷たい汗を感じる。

 

「……誰かが、

 ついて行ったら」

 

「そうだな」

 

イェルグは、視線を沼に戻す。

 

「増える」

 

光も、

犠牲も。

 

夜が、静かに閉じる。

 

善意の痕跡が、

確かに、そこに残っていた。

 

そして、

まだ誰も死んでいない。

 

だが、

“いつ死ぬか”は、

もう見えていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。