検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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先に迷ったもの

第三十三話 先に迷ったもの

 

夜が明ける前の時間帯は、

昼でも夜でもない。

 

祈りの声も、

光も、

まだ戻ってこない。

 

教会の裏手、

湿った石壁にもたれながら、

イェルグは火をつけた。

 

擦った火打ち石の音が、

やけに大きく響く。

 

煙が立ち上り、

薄く漂う。

 

「……吸うんですね」

 

ルーネは、今さらのように言った。

 

「仕事の前後だけだ」

 

イェルグは、そう答える。

 

「境界にいるときは、

 味が分からなくなる」

 

一吸いして、

煙を吐く。

 

それは、

自分が“まだこちら側だ”と

確かめるための動作だった。

 

「昨日の光……」

 

ルーネが、切り出す。

 

「やっぱり、

 ウィル・オ・ウィスプ、ですよね」

 

イェルグは、すぐには答えない。

 

煙草を指で挟み、

燃え方を見る。

 

「……そう呼ばれるものの一つだ」

 

やがて、言った。

 

「地方によって名前は違う。

 鬼火、導き火、迷い灯」

 

どれも、

同じものを指している。

 

「共通しているのは」

 

イェルグは、低い声で続ける。

 

「先に迷った存在だということだ」

 

ルーネは、黙って聞く。

 

教わる態度ではない。

聞き逃さない態度だ。

 

「洗礼を受けられずに死んだ子供。

 生まれてすぐに亡くなった者。

 名前を呼ばれる前に、

 死んだ存在」

 

それは、

救われなかった、というより。

 

「……行き先を、

 教えられなかった」

 

イェルグは、そう言い直した。

 

「だから、境界に留まる」

 

「……成仏、できない?」

 

ルーネの言葉に、

イェルグは首を振る。

 

「違う」

 

即答だった。

 

「成仏という考え方自体が、

 後から作られた整理だ」

 

煙が、空に溶ける。

 

「彼らは、

 自分が迷っていることを

 知らない」

 

それが、一番の問題だ。

 

「知っていたら、

 留まる理由も分かる」

 

だが、知らない。

 

だから、

誰かが迷っているのを見ると――

 

「……一緒に、

 歩こうとする」

 

ルーネの喉が、鳴る。

 

「あの光は、

 助けているつもりなんですね」

 

「そうだ」

 

イェルグは、淡々と肯定する。

 

「自分が通った道を、

 なぞらせているだけだ」

 

それが、

安全だったかどうかは、

関係ない。

 

「戻れなかった道を、

 戻れなかったまま」

 

善意だ。

疑いようのない。

 

「……じゃあ、

 討伐するんですか」

 

ルーネの問いは、

まっすぐだった。

 

イェルグは、煙草を地面に落とし、

踏み消す。

 

「祈祷は、

 彼らにとっては“終わり”だ」

 

救済。

消去。

 

「それは、

 救いでもある」

 

同時に、

問いを残す。

 

「だが」

 

イェルグは、ルーネを見る。

 

「誰のための、

 救いだ」

 

ルーネは、答えられない。

 

母の顔が、

脳裏に浮かぶ。

 

「……母親は」

 

「探すことを、

 やめられないだろう」

 

イェルグは、冷静に言う。

 

「光は、

 それに応える」

 

どちらも、

悪くない。

 

だからこそ、

危険だ。

 

遠くで、

朝の鐘が鳴る。

 

その音は、

境界を閉じる音でもある。

 

「……イェルグさん」

 

ルーネが、少し迷ってから言う。

 

「もし、

 自分が、あの母親の立場だったら……」

 

イェルグは、答えない。

 

代わりに、

こう言った。

 

「検死官は、

 選ばない」

 

救うか、

消すか。

 

正しいか、

間違っているか。

 

「起きていることを、

 見るだけだ」

 

それが、

境界に立つ仕事だ。

 

朝日が、

沼の方角を薄く照らす。

 

夜の光は、

今は見えない。

 

だが、

消えたわけではない。

 

ただ、

探している者が、

 目を閉じているだけだ。

 

そのことを、

イェルグも、ルーネも、

分かっていた。

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