第三十六話 消えたあとの輪郭
祈祷が終わった沼は、
驚くほど普通だった。
水は澱まず、
風もある。
鳥が鳴き、
遠くで人の声がする。
「……本当に、終わったんだな」
村人の誰かが言った。
その言葉に、
誰も反論しなかった。
終わった、という言葉は、
人を前に進ませる。
ルーネだけが、
立ち止まっていた。
足元の地面は、
昨日と同じだ。
湿っていて、
柔らかく、
少し沈む。
それなのに――
何かが、違う。
「……軽い」
思わず、そう呟く。
沼が、ではない。
空気が。
重さが、抜け落ちている。
だがそれは、
安心とは、違った。
まるで、
何かが剥がれ落ちた跡を
見ているような。
「……ルーネ」
イェルグの声が、背後からする。
振り返ると、
彼は煙草を咥えていた。
火は、ついていない。
「どう思う」
問いかけは、
いつも短い。
考えを、
言語化しろ、という合図だ。
ルーネは、少し迷ってから言う。
「……見えなくなっただけ、
って感じがします」
イェルグは、
否定しない。
「俺もだ」
それだけだった。
祈祷隊は、
撤収の準備をしている。
彼らは、
結果を疑わない。
祈りが通ったなら、
それでいい。
「……光は」
ルーネは、
視線を地面に落とす。
見えない。
昨日まで、
確かに在ったはずのものが、
今は、ない。
だが、
“無い”という感覚とも違う。
「……居場所を、
失っただけ、
なんじゃないかって」
ルーネは、
自分の言葉に、少し驚いた。
こんな考え方を、
するようになるとは思っていなかった。
イェルグは、
ようやく火をつける。
煙が、
細く立ち上る。
「それでいい」
肯定だった。
「境界に関わると、
そういう見方を
するようになる」
それは、
祝福でも、
呪いでもない。
ただの、変化だ。
村に戻る道すがら、
ルーネは、何度も振り返った。
沼は、
何も語らない。
だが、
語らないということ自体が、
一つの情報だった。
「……あの母親」
ルーネは、歩きながら言う。
「今夜も、
探すと思いますか」
イェルグは、少し考える。
「探す」
即答ではなかった。
「だが、
見つからない」
「それって……」
「昨日までとは、
違う探し方になる」
光がない。
道標がない。
それでも、
心は止まらない。
「……残酷ですね」
ルーネの声は、
自分でも驚くほど、静かだった。
「残酷なのは、
世界じゃない」
イェルグは、煙を吐く。
「期待だ」
救われる、
という期待。
善意が、
報われるという期待。
それが、
人を深みに連れていく。
宿に戻ると、
村は、いつもの顔をしていた。
パンの匂い。
子供の笑い声。
生活の音。
誰も、
昨夜の光を口にしない。
事故は、事故として、
消費されていく。
ルーネは、
それを見て、
胸の奥が、少し痛んだ。
「……忘れるんですね」
「忘れる」
イェルグは、
淡々と答える。
「だから、
次が起きる」
部屋に入ると、
ルーネは、
椅子に腰を下ろしたまま、動けなかった。
目を閉じると、
光の列が浮かぶ。
あれは、
助けだったのか。
罠だったのか。
あるいは――
ただの、模倣か。
「……俺」
ふと、思う。
もし、
あの場に一人で立っていたら。
もし、
探している何かがあったら。
光が見えたら。
――自分も、
踏み出していたのではないか。
その考えに、
背筋が冷える。
ルーネは、
初めてはっきりと理解した。
境界は、
場所ではない。
「……人だ」
自分自身の中に、
ある。
イェルグが、
部屋の隅で煙草を消す。
「今日は、ここまでだ」
それは、
休め、という意味ではない。
これ以上、
踏み込むな、という線引きだ。
ルーネは、
小さく頷いた。
だが、
分かっている。
もう、
元の場所には戻れない。
光は、消えた。
それでも、
輪郭だけは、
確かに残っている。
そして、
それを見る目を、
自分は、持ってしまった。