検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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人が、境界になった

第三十七話 人が、境界になった

 

最初に違和感を覚えたのは、

“静かすぎる”ということだった。

 

夜明け前。

村はまだ眠っている。

 

だが、

完全に眠っているわけではない。

 

家畜の気配。

遠くの水音。

風に揺れる布の擦れる音。

 

それらが、

一箇所だけ、途切れている。

 

「……ここ」

 

ルーネは、

自分の声が、少し震えているのを自覚した。

 

家と沼の中間。

昨日まで、

誰も近づかなかった場所。

 

イェルグは、

何も言わず、歩を進める。

 

草が、

踏まれていない。

 

だが、

踏まれなかった、というより――

避けられている。

 

中心に、

人が立っていた。

 

いや、

立っているように、見えただけだ。

 

近づくにつれ、

それが“死体”だと分かる。

 

若い女。

あの母親だ。

 

膝まで水に浸かり、

だが、沈んでいない。

 

足元は、

ぬかるんでいるはずなのに、

体は、傾かない。

 

支えが、

ない。

 

「……立ってる」

 

ルーネの喉が、鳴る。

 

死体は、

立っていた。

 

目は開いたまま。

だが、

何も見ていない。

 

顔には、

恐怖も、安堵もない。

 

ただ――

待っている。

 

「……これが」

 

ルーネは、

言葉を探す。

 

「人が、

 境界に……?」

 

イェルグは、

死体の周囲を、

ゆっくりと回る。

 

足跡は、

女のものだけ。

 

引きずり跡はない。

 

「自分で、

 ここに来た」

 

確認するように、言う。

 

「そして、

 戻らなかった」

 

ルーネは、

胸の奥が、冷えていくのを感じた。

 

光は、

もう見えない。

 

だが――

 

「……いる」

 

分かる。

 

見えないだけで、

ここに“道”がある。

 

女の体は、

それを、繋ぎ止めている。

 

「……どうして」

 

問いは、

誰に向けたものでもなかった。

 

イェルグは、

女の手を見る。

 

指は、

軽く前に伸びている。

 

掴もうとした形だ。

 

「最後まで、

 探していた」

 

淡々とした声。

 

「祈祷で、

 光は消えた」

 

「でも、

 探す心は、

 消えなかった」

 

ルーネの中で、

何かが、崩れる。

 

祈りは、

救ったのではない。

 

“終わらせた”だけだ。

 

行き場を失ったものは、

人に、縫い付けられる。

 

「……境界って」

 

ルーネは、

言葉を吐き出す。

 

「場所じゃないんですね」

 

イェルグは、

小さく頷く。

 

「人が、

 跨ごうとした瞬間に、

 生まれる」

 

この女は、

戻ろうとしなかった。

 

行こうとした。

 

その意志が、

ここを、

境界にした。

 

ルーネは、

一歩、下がる。

 

もし、

この人に触れたら。

 

もし、

声をかけたら。

 

境界は、

自分に移るのではないか。

 

そんな、

根拠のない恐怖が、

確かにあった。

 

「……怖い」

 

正直な言葉だった。

 

「それでいい」

 

イェルグは、

煙草を取り出す。

 

火をつけ、

深く吸う。

 

煙が、

女の周囲を、

避けるように流れる。

 

「怖くなくなったら、

 ここに立つ」

 

それは、

忠告だった。

 

教会が呼ばれる。

 

祈祷隊が来る。

 

だが、

今回は、少し違う。

 

「……これは」

 

祈祷隊の一人が、

言葉を失う。

 

祈りは、

人を対象にする。

 

だが、

この人は、

“場所”になっている。

 

「……どうするんですか」

 

ルーネが、

イェルグを見る。

 

「切り離す」

 

「……それって」

 

「この人を、

 終わらせる」

 

救済ではない。

解決でもない。

 

ただ、

次を起こさせないための処理だ。

 

ルーネは、

唇を噛む。

 

あの夜、

母は、光を追った。

 

それは、

間違いだったのか。

 

正しかったのか。

 

分からない。

 

ただ、

結果が、

ここにある。

 

祈祷が始まる。

 

今回は、

時間がかかる。

 

言葉が、

人を剥がし、

場所から引き剥がす。

 

その最中、

ルーネは、

一瞬だけ――

 

光を見た。

 

女の背後。

ほんの一瞬。

 

子供ほどの高さ。

 

手を、

伸ばしている。

 

「……っ」

 

声は、出なかった。

 

すぐに、

消えた。

 

祈祷が終わると、

女は、

崩れ落ちた。

 

ただの、

死体になる。

 

沼は、

静かだ。

 

境界は、

消えた。

 

だが、

喉の奥に、

何かが残る。

 

「……終わった、

 んですよね」

 

ルーネの声は、

掠れていた。

 

「終わった」

 

イェルグは、言う。

 

「解決は、

 していないがな」

 

それが、

検死官の現実だ。

 

村は、

この出来事を、

語らない。

 

事故として、

処理される。

 

誰も、

境界という言葉を使わない。

 

だが、

ルーネは、知ってしまった。

 

人は、

祈りによって、

守られることもある。

 

同時に――

祈りによって、

置き去りにもされる。

 

「……俺」

 

心の中で、

小さく呟く。

 

自分は、

どこに立っている。

 

まだ、

戻れる側か。

 

それとも――

もう、

境界の上か。

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