第三十八話 灯は、数えられない
朝は、来た。
それが、
一番、堪えた。
人が境界になって終わった夜のあとでも、
朝は、何の相談もなく訪れる。
鳥が鳴き、
水面が揺れ、
村は、昨日の続きの顔をする。
「……普通ですね」
ルーネは、
そう言ってから、
自分の声が、少し他人事のように聞こえた。
普通、という言葉が、
こんなにも軽いものだったか。
「普通だ」
イェルグは、
煙草に火をつける。
朝の空気に、
煙が溶ける。
「だから、
皆、今日を生きられる」
それは、
肯定でも、
皮肉でもない。
ただの事実だ。
沼は、
昨日と同じ場所にある。
だが、
もう、違う。
何かが消えたからではない。
何かが、定着した。
「……あの光」
ルーネは、
昨夜見たものを、
まだ胸の奥に残していた。
目を閉じれば、
浮かぶ。
子供ほどの高さ。
伸ばされた手。
呼ばれた気がしたのか、
それとも――
自分が、見たかっただけなのか。
「……あれは」
言葉が、続かない。
イェルグは、
答えない。
代わりに、
足元の地面を見る。
「ウィル・オ・ウィスプの話を、
どこまで信じる」
問いは、
静かだった。
ルーネは、
考える。
洗礼を受けずに死んだ子供の魂。
導きを求め、
人を呼ぶ光。
それは、
“悪意ではない”。
だが――
結果は、どうだ。
「……善意、
だったんだと思います」
絞り出すように、言う。
「母親も、
あれも」
イェルグは、
小さく頷く。
「善意は、
止まらない」
煙を吐く。
「止まらない善意は、
境界を越える」
それだけで、
十分に危険だ。
村を離れる準備が進む。
教会は、
この事件を、
「沼地での転落事故」と記録する。
嘘ではない。
全ても、
本当ではないが。
「……残るんですね」
ルーネは、
村の方を見て言う。
「あの噂」
「残る」
イェルグは、即答する。
「歪んで、
薄まって、
形を変えて」
光は、
子供を攫う怪異になるかもしれない。
母の話は、
教訓話になるかもしれない。
だが、
真ん中にあったものは、
どこにも行かない。
「……俺」
ルーネは、
自分の手を見る。
何も、
付いていない。
それが、
少し怖い。
「俺、
何も出来てないですよね」
「出来ている」
イェルグは、
歩き出しながら言う。
「見た」
それが、
検死官の仕事の一部だ。
世界を、
都合よく閉じないこと。
ルーネは、
その背中を追う。
歩きながら、
胸の奥で、
何かが静かに動く。
怒りでも、
悲しみでもない。
「……忘れない、
って意味、
あるんですか」
「ある」
イェルグは、
少しだけ、振り返る。
「次に、
同じ光を見たとき」
どうするかを、
選べる。
村の外れで、
ルーネは、
最後に一度、
沼を振り返った。
何も、見えない。
光はない。
だが――
数えられない灯が、
確かにあった気がした。
人の数だけ。
祈りの数だけ。
「……行きましょう」
そう言えた自分に、
少しだけ驚く。
イェルグは、
新しい煙草に火をつける。
「次も、
似たような話だ」
慰めではない。
予告だ。
ルーネは、
小さく息を吸った。
怖い。
それでも、
目を逸らさない。
境界は、
外にあるだけじゃない。
それを知ったまま、
歩き続ける。
灯は、
数えられない。
だからこそ、
一つ一つを、
見失わない。