検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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煙の臭い

第三話 煙の臭い

 

風向きが、変わった。

 

イェルグは、足を止めた。

 

川沿いの低地。

湿った草の匂いに混じって、

ひとつだけ、異物がある。

 

焦げ。

だが、木じゃない。

 

「……海藻だ」

 

兵が首を傾げる。

 

「ここ、内陸ですよ?」

 

「ええ」

 

イェルグは、

ゆっくりと歩き出す。

 

臭いは、薄い。

だが、

確実に残っている。

 

水辺の石の間。

焚き火の跡。

 

灰は少ない。

燃やした量も、わずかだ。

 

――足りる。

 

イェルグは、

しゃがみ込み、

灰を指で崩す。

 

ぬめり。

塩分。

 

間違いない。

 

「……誰か、

 知ってやってます」

 

兵の声が、少し震える。

 

「怒らせるって、

 さっき言ってましたよね」

 

イェルグは頷いた。

 

「ナックラヴィーは、

 淡水を嫌います」

 

指を一本立てる。

 

「そして、

 もう一つ、

 はっきりした弱点がある」

 

彼は、

焚き火跡を見下ろす。

 

「焼いた海藻の煙」

 

兵が、息を呑む。

 

「それ、

 伝承じゃ……」

 

「ええ。

 でも、

 現実です」

 

イェルグは立ち上がり、

煙草を取り出した。

 

火をつける前に、

一瞬だけ、

小さく唇を動かす。

 

祈りだ。

 

短い。

形式だけの。

 

――死者が、境界を越えられますように。

 

それだけ。

 

火をつけ、

煙を吐く。

 

「海藻を焼くと、

 ナックラヴィーは、

 激しく怒る」

 

煙が、

焚き火跡の上を流れる。

 

「怒った結果、

 病を撒くこともある。

 家畜が死に、

 作物が枯れる」

 

兵が、声を絞り出す。

 

「……じゃあ、

 ここ一帯が……」

 

「ええ」

 

イェルグは、

川の向こうを見た。

 

畑がある。

村がある。

 

「死体一つで、

 済ませる気は、

 なかったでしょう」

 

彼は、

灰の中から、

小さな金属片を拾い上げた。

 

留め具。

袋の。

 

赤い布の、

切れ端が、

わずかに残っている。

 

「誘って、

 怒らせて、

 境界を越えさせる」

 

兵は、

青ざめた顔で呟く。

 

「……人間の、

 やることですか?」

 

イェルグは、

少しだけ、

考える。

 

「ええ」

 

そして、

はっきりと言った。

 

「教会の人間が、

 やることでもあります」

 

兵が、

目を見開く。

 

イェルグは、

自分のナイフに手をかけた。

 

刃は、

聖別されている。

 

だからこそ、

汚れ仕事にも使える。

 

「これは、

 魔物の事件じゃない」

 

煙が、

川面に消えていく。

 

「異端の臭いがします」

 

遠くで、

風が、

鳴った。

 

海のないはずの土地で。

 

二体目は、川を渡った先にあった。

 

畑の端。

土は割れ、作物は立ったまま枯れている。

刈り取られる前に、命だけが抜けたような光景だった。

 

家畜小屋の前で、

女が倒れていた。

 

外傷はない。

血も出ていない。

争った形跡もない。

 

「……寝てるみたいだ」

 

護衛兵の声は、

安堵と困惑が混じっている。

 

イェルグは首を振った。

 

「違います」

 

彼は、女のそばに膝をつく。

手袋越しに、頬に触れる。

 

冷たい。

だが、硬直は浅い。

 

「死後、

 そう経っていない」

 

兵が、周囲を見る。

 

「魔物に、

 襲われた感じは……」

 

「ええ」

 

イェルグは、

女の口元を覗き込む。

 

唇が、

わずかに、

裂けている。

 

乾いて、

ひび割れたように。

 

「噛まれていない。

 引き裂かれてもいない」

 

彼は、

女の胸に手を当てる。

 

もう、

鼓動はない。

 

「でも、

 息は、

 奪われています」

 

兵が、眉をひそめる。

 

「毒、ですか?」

 

「……近い」

 

イェルグは、

女の喉元を指さす。

 

皮膚の下。

うっすらと、

黒ずんだ血管。

 

「吸い込んだ」

 

「何を……?」

 

イェルグは、

言葉を選ばなかった。

 

「毒の息です」

 

兵が、

一歩下がる。

 

「ナックラヴィーは、

 直接殺すこともある」

 

イェルグは、

女の指を取る。

 

爪の間。

土。

だが、

逃げた形跡はない。

 

「でも、

 こういう死に方は、

 “副作用”です」

 

彼は、

女の目を閉じる。

 

「怒った結果、

 撒き散らされたもの」

 

沈黙。

 

風が吹き、

畑の枯れ葉が、

擦れ合う。

 

「……助からなかったんですか?」

 

兵の問いは、

遅すぎた。

 

イェルグは、

しばらく答えなかった。

 

煙草を取り出し、

火をつける。

 

一息、

吸う。

 

「吸い込んだ量が、

 多すぎます」

 

煙を吐く。

 

「それに……」

 

彼は、

女の胸元を探り、

小さな木札を取り出した。

 

教会の印。

 

簡素な、

護符。

 

「祈っていた」

 

兵が、

声を失う。

 

「……じゃあ、

 神に、

 見捨てられた?」

 

イェルグは、

首を横に振る。

 

「違います」

 

彼は、

静かに言った。

 

「神は、

 最初から、

 ここを見ていない」

 

教会の印を、

女の手に戻す。

 

「これは、

 魔物のせいじゃない」

 

川の向こう。

焚き火の跡。

海藻の灰。

 

すべてが、

一本の線で、

繋がる。

 

「ナックラヴィーは、

 ただ、

 怒っただけです」

 

イェルグは、

立ち上がった。

 

「怒らせた人間が、

 いる」

 

兵は、

絞り出すように言う。

 

「……教会、

 ですよね」

 

イェルグは、

答えなかった。

 

代わりに、

ナイフを握る。

 

この刃は、

死を暴くためのものだ。

 

だが、

それだけでは、

足りなくなりつつある。

 

「報告は、

 します」

 

低く、

はっきりと。

 

「ただし――

 全部は、

 書きません」

 

兵が、

息を呑む。

 

イェルグは、

女の死体を、

もう一度だけ見た。

 

悲しい。

それだけは、

確かだった。

 

だが、

世界の仕組みを、

嘆くほど、

彼は、

遠くを見ていない。

 

「次は、

 誰が、

 死ぬか」

 

彼が見ているのは、

いつも、

目の前だ。

 

そして、

その目の前に、

教会が、

立ち始めていた。

 

 

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