第三十九話 沼は、語らない
その年の夏、
沼は干上がらなかった。
それだけで、
村人たちは胸を撫で下ろした。
水位は、例年通り。
葦は伸び、
虫は羽音を立てる。
だが、
何かが戻らなかった。
夜の音だ。
以前は、
日が沈むと同時に、
沼はざわめいた。
水鳥が羽ばたき、
蛙が鳴き、
風が、
水面に細かい皺を刻んだ。
今は、
音が、均されている。
完全な静寂ではない。
ただ、
“間”がない。
まるで、
誰かが耳を澄ます余地を、
先回りして消したような。
母親の家は、
ほどなく空き家になった。
夫は、
一冬を越せなかった。
病だと、
記録にはある。
だが村では、
こう囁かれる。
――探すのを、
やめたからだ。
誰も、
その言葉を否定しない。
否定できないからだ。
沼の縁には、
小さな杭が立てられた。
柵ではない。
目印だ。
「ここから先は、
夜に入るな」
そう言われているだけだ。
昼間、
子供たちは沼の近くで遊ぶ。
石を投げ、
水を跳ねさせる。
だが、
日が傾くと、
誰も言わなくても帰る。
理由を聞くと、
子供たちは首を傾げる。
「なんとなく」
それ以上の言葉を、
彼らは持たない。
持たないまま、
育つ。
それが、
一番強い禁忌だ。
教会の巡回は、
一度きりだった。
若い聖職者が二人。
祈りを捧げ、
水を祝別し、
問題なしと告げた。
だが帰り際、
片方が、
沼を振り返ったという。
「……光、
出なかったな」
もう一人は、
何も答えなかった。
記録係は、
筆を走らせる。
異常なし
再訪不要
その文字は、
正しい。
だが、
全てではない。
季節が変わる。
秋。
霧が出る。
霧は、
沼から立ち上る。
だが、
人を呼ばない。
ただ、
そこに溜まる。
老人の一人が、
こう言った。
「昔はな、
沼に光が出たら、
“迷うな”って意味だった」
誰かが聞き返す。
「今は?」
老人は、
しばらく黙り、
杖で地面を叩く。
「今は、
最初から行くな、だ」
誰も、
笑わなかった。
冬。
沼は、
完全には凍らない。
その中央だけ、
薄く、水が残る。
人の形に、
見えなくもない。
だが、
誰も口にしない。
言葉にすれば、
境界になると、
どこかで知っている。
村の外。
検死官イェルグと、
その助手ルーネは、
別の土地を歩いている。
だが、
ルーネは、
時折、
沼を思い出す。
光のなかった夜。
立っていた人。
そして、
自分が、
一歩、
踏み出さなかったこと。
後悔ではない。
誇りでもない。
ただ、
判断だった。
それを、
忘れない。
イェルグは、
煙草を吸う。
「境界は、
消えたか」
ルーネは、
少し考えてから答える。
「……残ってます」
「どこに」
「人の中に」
イェルグは、
それ以上、
何も言わない。
それでいい。
沼は、
もう語らない。
だが、
語られなかったものは、
人の側に残る。
それは、
怪異ではない。
祈りでもない。
ただの、
選ばれなかった可能性だ。
夜。
月が出る。
水面が、
淡く光る。
それを見て、
誰も歩き出さない。
光は、
導かない。
それが、
この沼に残った、
唯一の救いだった。