名を失う前の夜
第四十話 名を失う前の夜
夜は、ちゃんと夜だった。
特別に暗いわけでも、特別に静かなわけでもない。森はいつも通りで、虫は鳴き、風は葉を揺らしていた。
ただ、彼女の家だけが、夜を拒んでいた。
灯りは消えているのに、眠りが来ない。
横になっても、目を閉じても、体は昼のままだった。
寝台の隣に、小さな空間がある。
もう使われない、子供用の寝床。
布は畳まれている。洗って、乾かして、きちんと重ねてある。
使われないと分かっているものほど、
人は丁寧に扱ってしまう。
彼女は、そこに手を伸ばさなかった。
触れれば、指の温度が分かってしまう。
冷えていることが、分かってしまう。
代わりに、耳を澄ました。
何も聞こえない。
呼吸も、寝返りも、寝言もない。
それでも、待ってしまう。
「……もう、いいでしょう」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
自分に言ったのか、いない相手に言ったのかも、分からない。
子供は、死んだ。
それは、事実だった。
熱が下がらなかった。
夜ごと、体が燃えるようで、水を飲ませ、布を替え、祈った。
神にも、草にも、医者にも、全部に縋った。
それでも、朝が来た。
朝は残酷だった。
泣いている途中でも、容赦なく来る。
小さな体は、軽くなっていた。
抱き上げたとき、あまりにも軽くて、思わず謝ってしまった。
――ごめんね。
何に対する謝罪か、分からないまま。
埋めた。
ちゃんと、土に返した。
名前を呼んで、祈って、最後までやった。
周りは、言った。
「よく頑張った」
「仕方なかった」
「次がある」
どれも、正しい言葉だった。
正しすぎて、何も残らなかった。
夜になると、体が覚えていることがあった。
子供の寝息が、どのくらいの間隔だったか。
咳をしたとき、どの向きに顔を向けるか。
眠りが浅いとき、どこを撫でれば落ち着くか。
体は、全部覚えているのに、
それを使う相手だけが、いない。
忘れようとすると、罪悪感が来た。
覚えていようとすると、苦しみが来た。
どちらを選んでも、罰だった。
だから、森へ行った。
理由はなかった。
ただ、家にいられなかった。
森は、彼女を咎めなかった。
泣いても、叫んでも、何も言わない。
慰めもしない代わりに、追い出しもしない。
それが、楽だった。
最初は、花を置いた。
次に、子供が好きだった食べ物を。
意味がないことは、分かっていた。
意味がないから、置いた。
ある夜、風が、少しだけ違った。
名前を呼ばれた気がした。
耳ではなく、胸の奥で。
気のせいだと、思った。
思ったが、帰れなかった。
次の日も、森に行った。
次の日も、その次の日も。
体が、家では眠れなくなっていた。
森で座り込むと、不思議と目を閉じられた。
夢は見なかった。
ただ、時間が過ぎた。
あるとき、足元に、布切れが落ちていた。
子供の服と、同じ色だった。
拾った。
持ち帰らなかった。
その場で、折り畳んだ。
それだけで、胸が少しだけ軽くなった。
「……まだ、いいでしょう」
また、そう呟いた。
この頃から、彼女は気づかなくなっていた。
寒さに。
空腹に。
自分の体の変化に。
ただ、
“母であることをやめない”
その一点だけに、縋っていた。
子供は、もういない。
それを、受け入れていないわけじゃない。
ただ――
母でなくなる理由が、見つからなかった。
夜が明けるころ、
森の奥で、何かが、ゆっくりと形を変え始めていた。
それを、彼女は知らない。
知る必要がなかったからだ。
彼女にとって大切だったのは、
今日も、名前を呼べるかどうか。
それだけだった。