第四十一話 優しい森
森は、朝を拒む。
夜明けの光は差しているはずなのに、木々の間に落ちるそれは薄く、冷たく、触れれば消えてしまいそうだった。音も同じだ。鳥の声はある。風が葉を揺らす音もある。だが、それらは互いに交わらず、ただ地面へ沈んでいく。
その沈黙を踏み破るように、人の足音があった。
ルーネは一歩遅れて森に入った。
足元に気を配りながらも、視線は自然と前へ向いてしまう。そこにあるものを、まだ見たくないと思いながらも。
「……ここ、なんですね」
声が、やけに軽く響いた気がして、ルーネは口を噤んだ。
「そうだ」
短く答えたイェルグは、すでに膝をついている。
迷いがない。ためらいもない。死体の前に立つ人間の動きではなく、道具を前にした職人のそれだった。
遺体は、森の縁に横たわっていた。
木々が途切れ、下草が低くなり、それでいて踏み固められている場所。誰かがここに何度も来ていた。通り道としてではない。留まるために。
子供だった。
「……小さい」
ルーネがそう呟いたのを、イェルグは咎めない。
「五、いや六か」
イェルグは淡々と続ける。
「歯を見ろ。乳歯が抜け始めてる。骨もまだ柔らかい。男だな」
性別を告げる声に、感情はない。
だが、それが冷酷だとはルーネは思わなかった。感情を挟めば、見えなくなるものがあると、もう知っていたからだ。
イェルグは手袋をはめ、遺体に触れる。
まず、外傷。
「……擦り傷が少ない」
ルーネは一歩近づき、同じように遺体を見る。
確かに、森で死んだ子供にしては不自然だった。服も破れていない。手のひらも、爪の間も、きれいだ。
「逃げて……ない?」
「そうだな」
イェルグは腕の内側を示す。
「代わりに、これだ」
そこには、指の形をした圧痕があった。大きい。子供のものではない。だが――
「爪が、立ってない……」
ルーネが言うと、イェルグは小さく頷いた。
「落とさないように、だ」
火打石の音。
煙草に火がつく。白い煙が、森に滲む。
「守るために触れられてる」
胸部を押す。
肋骨の下、皮下出血。
「古いな。生前だ。しかも、一度じゃない」
「……一緒に、寝てたんですか」
ルーネの声は、震えてはいなかった。
だが、喉の奥がひりついた。
「たぶんな」
イェルグは口腔を確認する。
歯形がある。だが、噛み裂いてはいない。血も少ない。
「食われてない」
「じゃあ……?」
「含ませてる」
イェルグはそう言い切った。
沈黙が落ちる。
森が、より深くなる。
次に、保存処理。
「洗われてる」
イェルグは、淡々と説明する。
「一度や二度じゃない。清めるためだ。防腐草も……多すぎる」
ルーネは薬草の束を思い出す。
教会で見たことのあるもの。だが――
「それ、産後に使うやつですよね……」
「知ってるな」
「……勉強しましたから」
イェルグは、それ以上何も言わない。
ただ、名前布の切り取られた跡を見る。
「名前を消したんじゃない」
煙を吐く。
「呼ばれないようにした」
ルーネは、胸の奥が詰まるのを感じた。
怖がっていない死体。逃げていない足。洗われ、抱かれ、眠らされた痕跡。
「……この子、怖くなかったんですね」
「そうだ」
イェルグは即答した。
「怖がる必要がなかった」
森を見る。
人の世界と、そうでないものの境。
煙草を地面に押し消す。
「殺された死体じゃない」
「じゃあ……」
「手放されなかった死だ」
その言葉は、祈りでも、裁きでもなかった。
ただの、検死官の判断だった。
この日、教会に提出された記録には、
まだ怪異の名はない。
だが、
母であろうとした痕跡だけが、
確かに、そこに記されることになる。