検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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優しい森

第四十一話 優しい森

 

森は、朝を拒む。

夜明けの光は差しているはずなのに、木々の間に落ちるそれは薄く、冷たく、触れれば消えてしまいそうだった。音も同じだ。鳥の声はある。風が葉を揺らす音もある。だが、それらは互いに交わらず、ただ地面へ沈んでいく。

 

その沈黙を踏み破るように、人の足音があった。

 

ルーネは一歩遅れて森に入った。

足元に気を配りながらも、視線は自然と前へ向いてしまう。そこにあるものを、まだ見たくないと思いながらも。

 

「……ここ、なんですね」

 

声が、やけに軽く響いた気がして、ルーネは口を噤んだ。

 

「そうだ」

 

短く答えたイェルグは、すでに膝をついている。

迷いがない。ためらいもない。死体の前に立つ人間の動きではなく、道具を前にした職人のそれだった。

 

遺体は、森の縁に横たわっていた。

木々が途切れ、下草が低くなり、それでいて踏み固められている場所。誰かがここに何度も来ていた。通り道としてではない。留まるために。

 

子供だった。

 

「……小さい」

 

ルーネがそう呟いたのを、イェルグは咎めない。

 

「五、いや六か」

 

イェルグは淡々と続ける。

 

「歯を見ろ。乳歯が抜け始めてる。骨もまだ柔らかい。男だな」

 

性別を告げる声に、感情はない。

だが、それが冷酷だとはルーネは思わなかった。感情を挟めば、見えなくなるものがあると、もう知っていたからだ。

 

イェルグは手袋をはめ、遺体に触れる。

まず、外傷。

 

「……擦り傷が少ない」

 

ルーネは一歩近づき、同じように遺体を見る。

確かに、森で死んだ子供にしては不自然だった。服も破れていない。手のひらも、爪の間も、きれいだ。

 

「逃げて……ない?」

 

「そうだな」

 

イェルグは腕の内側を示す。

 

「代わりに、これだ」

 

そこには、指の形をした圧痕があった。大きい。子供のものではない。だが――

 

「爪が、立ってない……」

 

ルーネが言うと、イェルグは小さく頷いた。

 

「落とさないように、だ」

 

火打石の音。

煙草に火がつく。白い煙が、森に滲む。

 

「守るために触れられてる」

 

胸部を押す。

肋骨の下、皮下出血。

 

「古いな。生前だ。しかも、一度じゃない」

 

「……一緒に、寝てたんですか」

 

ルーネの声は、震えてはいなかった。

だが、喉の奥がひりついた。

 

「たぶんな」

 

イェルグは口腔を確認する。

歯形がある。だが、噛み裂いてはいない。血も少ない。

 

「食われてない」

 

「じゃあ……?」

 

「含ませてる」

 

イェルグはそう言い切った。

 

沈黙が落ちる。

森が、より深くなる。

 

次に、保存処理。

 

「洗われてる」

 

イェルグは、淡々と説明する。

 

「一度や二度じゃない。清めるためだ。防腐草も……多すぎる」

 

ルーネは薬草の束を思い出す。

教会で見たことのあるもの。だが――

 

「それ、産後に使うやつですよね……」

 

「知ってるな」

 

「……勉強しましたから」

 

イェルグは、それ以上何も言わない。

ただ、名前布の切り取られた跡を見る。

 

「名前を消したんじゃない」

 

煙を吐く。

 

「呼ばれないようにした」

 

ルーネは、胸の奥が詰まるのを感じた。

怖がっていない死体。逃げていない足。洗われ、抱かれ、眠らされた痕跡。

 

「……この子、怖くなかったんですね」

 

「そうだ」

 

イェルグは即答した。

 

「怖がる必要がなかった」

 

森を見る。

人の世界と、そうでないものの境。

 

煙草を地面に押し消す。

 

「殺された死体じゃない」

 

「じゃあ……」

 

「手放されなかった死だ」

 

その言葉は、祈りでも、裁きでもなかった。

ただの、検死官の判断だった。

 

この日、教会に提出された記録には、

まだ怪異の名はない。

 

だが、

母であろうとした痕跡だけが、

確かに、そこに記されることになる。

 

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