第四十三話悪意のない羨望
村は、静かだった。
いや、正確には――静かであろうとしていた。
人は普段通りに畑へ出て、水を汲み、窯に火を入れている。だが、会話の端々が短い。視線が合えば、すぐに逸らされる。何かを言いかけて、やめた口が、いくつもあった。
「……皆、知ってるんですね」
ルーネは、そう呟いた。
「知ってるか、気づかないふりをしてるかだ」
イェルグは歩きながら煙草をくわえ、火をつける。
村の空気に、煙の匂いが混じる。
最初に話を聞いたのは、井戸端にいた老婆だった。
目は澄んでいる。だが、口元は固い。
「……子供、ですか」
老婆は、問い返すように言った。
「いなくなった子供がいるか、だ」
イェルグの声は淡々としている。
「いるよ」
少しの沈黙の後、老婆は答えた。
「いる。でも……死んだ」
ルーネの胸が、わずかに詰まる。
「いつですか」
「三年前」
老婆は、地面を見たまま言った。
「病でね。熱が下がらなくて。医者も、祈祷も呼んだ。……でも、だめだった」
それで終わり、という顔だった。
だが、イェルグは続ける。
「母親は?」
老婆は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「……森に行くようになったよ」
それは、責める声ではなかった。
噂話でもなかった。
ただの事実の羅列だった。
「最初は、花を手向けてた。次は、食べ物。……そのうち、誰も止めなくなった」
「止めなかったんですか」
ルーネの声が、思ったより強くなった。
老婆は、ゆっくりと顔を上げる。
「止めて、どうするんだい」
その言葉は、刃のように鋭かった。
「子供が死んだあとで、母親から、何を奪う?」
ルーネは、何も言えなかった。
正しさが、ここでは重すぎた。
次に会ったのは、別の家の女だった。
彼女は、少し若い。視線が落ち着かない。
「……あの人、悪い人じゃないんです」
それは、弁明の形をしていた。
「夜になると、歌ってました。子守歌です。森のほうから、聞こえてきた」
「怖くなかった?」
ルーネが尋ねる。
女は、首を振る。
「……怖くなかった。むしろ……羨ましかった」
その言葉に、ルーネの心臓が跳ねる。
「羨ましい、って」
「だって」
女は唇を噛んだ。
「亡くなった子の名前、まだ呼べてたんですから」
沈黙が落ちる。
イェルグは、何も書かない。
ただ、聞く。
最後に訪ねたのは、村外れの家だった。
人の気配が薄い。だが、生活の痕跡はある。
扉を開けた女は、痩せていた。
目の下に影があり、だが背筋は伸びている。
「……教会の方ですか」
「検死官だ」
イェルグは名乗らない。
「子供のことで話がある」
女は、しばらく黙ってから、家に招き入れた。
「……死んだはずです」
それは、最初に出た言葉だった。
「三年前に。ちゃんと、埋めました」
「ええ」
イェルグは頷く。
「埋めた後の話だ」
女の指が、震える。
「……あの子は」
言葉が続かない。
「……あの子は、寒がりで」
ぽつり、と溢れる。
「夜になると、手を探すんです。眠るまで、離さないと……」
ルーネは、息をするのを忘れていた。
それは、死体が語った痕跡と、ぴたりと重なったからだ。
「森で、会ったんですか」
ルーネが問う。
女は、首を横に振る。
「……呼ばれた」
そう言って、微かに笑った。
「名前を、呼ばれた気がした」
イェルグは、煙草を取り出し、火をつける。
「子供は、もう死んでいる」
それは、断定だった。
女は、頷いた。
「……分かってます」
「それでも?」
「それでも」
女の声は、静かだった。
「“母”でいる時間だけは、残してほしかった」
家を出たとき、ルーネは足を止めた。
「……イェルグ」
「なんだ」
「これ……悪なんですか」
イェルグは、少しだけ考える。
「悪意はない」
「じゃあ」
「だからこそ、厄介だ」
煙が、空に消える。
「死体は、真実を語る。生きてる人間は、希望を語る」
ルーネは、その言葉を胸に落とす。
どちらも、嘘ではない。
だが、重なった場所に立たされたとき、
人は――選ばなければならない。
森のほうから、風が吹いた。
その奥で、何かが、まだ“続いている”気配があった。
ルーネは、初めて思った。
――この事件は、
終わらせていいものなのか。
答えは、まだ出ない。