検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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悪意のない羨望

第四十三話悪意のない羨望

 

村は、静かだった。

いや、正確には――静かであろうとしていた。

 

人は普段通りに畑へ出て、水を汲み、窯に火を入れている。だが、会話の端々が短い。視線が合えば、すぐに逸らされる。何かを言いかけて、やめた口が、いくつもあった。

 

「……皆、知ってるんですね」

 

ルーネは、そう呟いた。

 

「知ってるか、気づかないふりをしてるかだ」

 

イェルグは歩きながら煙草をくわえ、火をつける。

村の空気に、煙の匂いが混じる。

 

最初に話を聞いたのは、井戸端にいた老婆だった。

目は澄んでいる。だが、口元は固い。

 

「……子供、ですか」

 

老婆は、問い返すように言った。

 

「いなくなった子供がいるか、だ」

 

イェルグの声は淡々としている。

 

「いるよ」

 

少しの沈黙の後、老婆は答えた。

 

「いる。でも……死んだ」

 

ルーネの胸が、わずかに詰まる。

 

「いつですか」

 

「三年前」

 

老婆は、地面を見たまま言った。

 

「病でね。熱が下がらなくて。医者も、祈祷も呼んだ。……でも、だめだった」

 

それで終わり、という顔だった。

だが、イェルグは続ける。

 

「母親は?」

 

老婆は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。

 

「……森に行くようになったよ」

 

それは、責める声ではなかった。

噂話でもなかった。

ただの事実の羅列だった。

 

「最初は、花を手向けてた。次は、食べ物。……そのうち、誰も止めなくなった」

 

「止めなかったんですか」

 

ルーネの声が、思ったより強くなった。

 

老婆は、ゆっくりと顔を上げる。

 

「止めて、どうするんだい」

 

その言葉は、刃のように鋭かった。

 

「子供が死んだあとで、母親から、何を奪う?」

 

ルーネは、何も言えなかった。

正しさが、ここでは重すぎた。

 

次に会ったのは、別の家の女だった。

彼女は、少し若い。視線が落ち着かない。

 

「……あの人、悪い人じゃないんです」

 

それは、弁明の形をしていた。

 

「夜になると、歌ってました。子守歌です。森のほうから、聞こえてきた」

 

「怖くなかった?」

 

ルーネが尋ねる。

 

女は、首を振る。

 

「……怖くなかった。むしろ……羨ましかった」

 

その言葉に、ルーネの心臓が跳ねる。

 

「羨ましい、って」

 

「だって」

 

女は唇を噛んだ。

 

「亡くなった子の名前、まだ呼べてたんですから」

 

沈黙が落ちる。

 

イェルグは、何も書かない。

ただ、聞く。

 

最後に訪ねたのは、村外れの家だった。

人の気配が薄い。だが、生活の痕跡はある。

 

扉を開けた女は、痩せていた。

目の下に影があり、だが背筋は伸びている。

 

「……教会の方ですか」

 

「検死官だ」

 

イェルグは名乗らない。

 

「子供のことで話がある」

 

女は、しばらく黙ってから、家に招き入れた。

 

「……死んだはずです」

 

それは、最初に出た言葉だった。

 

「三年前に。ちゃんと、埋めました」

 

「ええ」

 

イェルグは頷く。

 

「埋めた後の話だ」

 

女の指が、震える。

 

「……あの子は」

 

言葉が続かない。

 

「……あの子は、寒がりで」

 

ぽつり、と溢れる。

 

「夜になると、手を探すんです。眠るまで、離さないと……」

 

ルーネは、息をするのを忘れていた。

それは、死体が語った痕跡と、ぴたりと重なったからだ。

 

「森で、会ったんですか」

 

ルーネが問う。

 

女は、首を横に振る。

 

「……呼ばれた」

 

そう言って、微かに笑った。

 

「名前を、呼ばれた気がした」

 

イェルグは、煙草を取り出し、火をつける。

 

「子供は、もう死んでいる」

 

それは、断定だった。

 

女は、頷いた。

 

「……分かってます」

 

「それでも?」

 

「それでも」

 

女の声は、静かだった。

 

「“母”でいる時間だけは、残してほしかった」

 

家を出たとき、ルーネは足を止めた。

 

「……イェルグ」

 

「なんだ」

 

「これ……悪なんですか」

 

イェルグは、少しだけ考える。

 

「悪意はない」

 

「じゃあ」

 

「だからこそ、厄介だ」

 

煙が、空に消える。

 

「死体は、真実を語る。生きてる人間は、希望を語る」

 

ルーネは、その言葉を胸に落とす。

どちらも、嘘ではない。

 

だが、重なった場所に立たされたとき、

人は――選ばなければならない。

 

森のほうから、風が吹いた。

その奥で、何かが、まだ“続いている”気配があった。

 

ルーネは、初めて思った。

 

――この事件は、

終わらせていいものなのか。

 

答えは、まだ出ない。

 

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