検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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記念と、無駄になった祈念

第四十四話 記念と、無駄になった祈念

 

森の奥は、変わっていなかった。

少なくとも、見た目は。

 

苔の匂い。湿った土。折れた枝。

朝の光は、相変わらず届かない。だが、ルーネは気づいていた。ここは、ただ暗いのではない。人の時間が薄い。

 

「……足跡が、ない」

 

ルーネは低く言った。

ここまで何度も出入りがあったはずなのに、地面は荒れていない。踏み荒らされた形跡がない。

 

「踏まれないようにしてる」

 

イェルグは、煙草に火をつける。

 

「重さを、分散させてる」

 

それは、人の歩き方ではない。

 

奥へ進むと、空気が変わった。

湿り気が増し、匂いが甘くなる。腐臭ではない。草の、乳のような匂い。

 

そこにあったのは――巣だった。

 

枝と布。

村で使われていた子供服。

洗われ、乾かされ、折り畳まれている。

 

「……家だ」

 

ルーネは、思わずそう言った。

 

否定されなかった。

 

中央には、浅い窪み。

何度も人の体重がかかった痕跡。だが、荒れていない。均されている。

 

イェルグは、地面に落ちていた鱗を拾い上げた。

 

「……?」

 

ルーネが覗き込む。

 

それは、人の皮膚に似ている。

だが、微かに硬く、光を反射する。乾いているのに、冷たさが残っていた。

 

「脱皮痕だ」

 

「蛇……?」

 

「近い」

 

イェルグは、周囲を見る。

木の根に絡むように残る擦過痕。だが、爪ではない。引きずった痕でもない。

 

「胴で、巻いてる」

 

煙を吐く。

 

「締めてない。支えるためにだ」

 

ルーネの喉が、鳴った。

 

巣の奥に、祭具があった。

祈祷の痕跡ではない。教会のものでもない。

 

子供の歯。

小さな靴。

髪を結ぶ紐。

 

すべてが、「記念」だった。

 

「……名前、呼ばないための」

 

ルーネの声が、掠れる。

 

イェルグは、古い記憶を掘り起こすように、ゆっくりと言った。

 

「子を失い、なお子を欲した女の話がある」

 

煙草の火が、赤く瞬いた。

 

「下半身は蛇。

人の姿で近づき、

抱き、守り、

そして――手放せなくなった存在」

 

ルーネは、息を呑む。

 

「……ラミア」

 

イェルグは、頷いた。

 

「そう呼ばれる」

 

その瞬間、森が、僅かに遠のいた気がした。

名前がついたことで、世界が一歩、整理されてしまう。

 

「……討伐、ですか」

 

ルーネは、分かっていながら聞いた。

 

「教会は、そう判断する」

 

イェルグは答える。

 

「だが――」

 

彼は、巣をもう一度見た。

 

「ここに、死体はない」

 

確かに。

巣には、生きているものの痕跡しかない。

 

「……逃がすんですか」

 

「追わないだけだ」

 

イェルグは煙草を消す。

 

「名前を知った時点で、向こうも気づく」

 

「何に?」

 

「“見られてる”ってことに」

 

風が、枝を揺らした。

遠くで、水音がした気がする。

 

母の姿は、最後まで現れなかった。

 

だが、

そこにいたことだけは、はっきりと分かった。

 

村に戻った夜、

イェルグの記録には、こう記される。

 

――怪異名:ラミア(推定)

――母性行動の確認

――直接接触なし

――境界は、未処理

 

最後の一文だけが、

不自然に、線を引かれていた。

 

終わっていない。

だが、これ以上進めば、壊れる。

 

その境目に、

イェルグとルーネは、立ち止まった。

 

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