検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

46 / 131
越えなかった灯
教会からの圧


第四十五話 教会からの圧

 

それは、呼び出しですらなかった。

ただ、紙一枚だった。

 

封蝋は正規のもの。

監査局の印。

文面は短く、丁寧で、逃げ場がない。

 

境界未処理案件について

速やかな説明を求める

 

宿の机にそれを置いたまま、イェルグは煙草に火をつけた。

火打石の音が、やけに大きく響く。

 

「……説明、ですか」

 

ルーネは立ったまま、その紙を見下ろしている。

言葉の少なさが、逆に重かった。

 

「処理しなかった理由を聞かれる」

 

イェルグは煙を吐く。

 

「処理できなかった理由じゃない。しなかった理由だ」

 

その違いに、ルーネは唇を噛む。

 

「……怒られる、んですか」

 

「怒られはしない」

 

イェルグは淡々と言った。

 

「評価が下がるだけだ」

 

それは、教会のやり方だった。

声を荒げない。裁かない。

ただ、次の仕事が減る。あるいは、増える。

 

ほどなくして、扉が叩かれた。

控えめで、正確な回数。

 

入ってきたのは、二人。

一人は年配の監査官。もう一人は、若い聖務官だった。

 

「検死官イェルグ」

 

監査官は名を名乗らない。

 

「今回の案件について、いくつか確認を」

 

「どうぞ」

 

イェルグは椅子に座ったまま答える。

煙草は消さない。

 

「怪異の特定は?」

 

「ラミアと推定」

 

「推定、ですか」

 

監査官は記録をめくる。

 

「直接接触なし。討伐なし。境界処理なし」

 

淡々と読み上げられる言葉に、ルーネの背筋が固くなる。

 

「理由は?」

 

イェルグは、一拍置いた。

 

「死体がなかった」

 

「……?」

 

「境界を越えた生者はいたが、終わった死はなかった」

 

監査官の指が止まる。

 

「つまり?」

 

「処理対象に値する“結果”が、出ていない」

 

沈黙。

 

若い聖務官が、思わず口を挟む。

 

「ですが、危険性は――」

 

「ある」

 

イェルグは即答した。

 

「だから記録した」

 

監査官は、ルーネを見る。

 

「同行者に、かなり教えていますね」

 

それは、咎めではない。

確認だった。

 

「必要な範囲で」

 

「“母性行動”という言葉も?」

 

「検死用語だ」

 

監査官は、少しだけ目を細める。

 

「情が移ったわけでは?」

 

イェルグは、煙を吐く。

 

「情が移るなら、検死官は務まらない」

 

嘘ではない。

だが、全てでもない。

 

監査官は、紙を一枚差し出した。

 

「次の案件です」

 

「……早いですね」

 

「境界未処理のまま帰還する者には、境界案件が回されます」

 

それは、罰ではない。

“適材適所”という名の圧だった。

 

「今回の判断は、記録として残します」

 

監査官は立ち上がる。

 

「次も同じ判断をされるなら――」

 

言葉は、最後まで言われなかった。

 

二人が出ていくと、部屋に静寂が戻る。

 

ルーネは、ようやく息を吐いた。

 

「……怒られてないのに、怖いですね」

 

「教会は、感情を使わない」

 

イェルグは煙草を消す。

 

「だから、逃げ場がない」

 

ルーネは、少し迷ってから言った。

 

「……でも」

 

「なんだ」

 

「間違ってないって、思います」

 

イェルグは、答えなかった。

ただ、次の案件の紙に目を落とす。

 

そこには、こう書かれていた。

 

境界周辺

水域案件

子供の失踪あり

 

教会は、忘れない。

そして、試す。

 

まだ、生きている検死官が、

どこまで踏みとどまれるのかを。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。