第四十六話 湖は、まだ静かだった
湖は、朝と夜の区別がつきにくい。
霧が出る日は特にそうで、水面は空を映すのか、底を隠すのか、判断がつかなくなる。
村の人間は、その湖を避けていた。
忌み嫌っているわけではない。ただ、慣れているのだ。
近づきすぎないこと。
覗き込まないこと。
声を張らないこと。
それが、この土地で生きるための、暗黙の知恵だった。
だから、最初に子供がいなくなったと聞いたとき、
人々は即座に湖を疑わなかった。
家の中か。
森か。
誰かに連れていかれたのか。
そうであってほしい、という順番で考えただけだった。
母親は、声が枯れるまで名前を呼んだ。
父親は、湖の周りを何度も回った。
足跡は、途中で消えていた。
濡れた土は、踏み荒らされているようにも、いないようにも見えた。
七歳か、八歳か。
年の割に、聞き分けのいい子だった。
勝手に遠くへ行くような子じゃない、と皆が言った。
母親は、そう言われるたびに、頷いた。
否定しなかった。
肯定もしなかった。
頷く以外のことが、できなかった。
湖は、変わらなかった。
水位も、色も、匂いも。
魚は跳ね、鳥は水を飲みに来て、風が渡った。
あまりにも、普通だった。
検死官イェルグが呼ばれたのは、三日目の朝だった。
教会の名を使った正式な要請。
内容は短い。
境界周辺
水域案件
子供の失踪あり
理由は書かれていない。
だが、彼は理解していた。
――処理しなかったから、回ってきた。
宿を出る前、イェルグは煙草に火をつけた。
火打石の音が、朝の空気を割る。
ルーネは、少し遅れてそれを見た。
最近、彼はその仕草をよく見る。
吸っているときのイェルグは、考えているのか、何も考えていないのか分からない。
煙が、彼の輪郭を一度ぼかしてから、元に戻す。
湖に着くと、親がいた。
憔悴しているが、壊れてはいない。
まだ、探している人間の目をしている。
「検死官様」
声は、震えていなかった。
それが、逆につらかった。
イェルグは、湖を見た。
水面は穏やかで、風に少し揺れるだけ。
「……まだ、死体は出ていないな」
「はい」
父親が答える。
「だから、まだ……」
言葉が続かなかった。
検死官は、死を扱う職だ。
だが、死体がない案件ほど、彼らを無力にするものはない。
イェルグは、岸にしゃがみ込み、水に指を浸した。
冷たい。
季節相応だ。
「音は?」
母親が、ぴくりと反応した。
「……音?」
「歌でも、呼ぶ声でもいい」
二人は、顔を見合わせた。
「……夜に」
母親が、かすかに言った。
「夜、湖のほうから……」
父親が、首を振る。
「風だ。気のせいだ」
イェルグは、否定も肯定もしなかった。
ルーネは、湖を見つめていた。
水面を、じっと。
――何も聞こえない。
それが、少しだけ、怖かった。
湖は、今日も静かだった。
静かすぎるほどに。
だが、
静かな水ほど、音をよく運ぶことを、
この場の誰も、まだ口にしていなかった。