検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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聞こえたもの、聞こえなかったもの

第四十七話 聞こえた者、聞こえなかった者

 

湖の周囲は、時間が経つにつれて、少しずつ騒がしくなった。

人が増えたからではない。

言葉が増えたのだ。

 

捜索は続いていた。

村人たちは、善意で集まっていた。

網を張り、棒で水底を探り、岸を歩く。

 

誰もが真剣だった。

誰もが疲れていた。

そして、誰もが、少しずつ違うものを見始めていた。

 

「昨日は、何もなかった」

 

そう言った男が、翌朝には声を潜める。

 

「……夜に、何か聞こえた気がする」

 

それは、歌だったと言う者もいた。

呼ばれた気がした、と言う者もいた。

子供の声だった、と断言する者もいた。

 

共通しているのは、

誰も同じ言葉を使わないということだけだった。

 

イェルグは、湖の周囲を歩きながら、その話を一つずつ聞いた。

煙草をくわえ、火をつけ、吸いながら。

 

「はっきり聞こえた?」

 

「いや……はっきりじゃない」

 

「耳じゃなく、胸のあたりで?」

 

その問いに、何人かが、困ったように頷いた。

 

ルーネは、その様子を少し後ろから見ていた。

彼は、イェルグほど慣れていない。

人の言葉の、曖昧な揺れに。

 

――胸で聞く音。

 

そんなものがあるのか、と考える。

自分には、何も聞こえない。

 

それが、だんだんと、

「安心」ではなく「隔たり」に変わっていくのを、彼は感じていた。

 

母親は、湖から目を離さなかった。

夜も、昼も。

誰かが代わろうとすると、首を振る。

 

「聞こえるんです」

 

あるとき、彼女はイェルグにそう言った。

 

「……何が?」

 

「名前が」

 

イェルグは、煙を吐いた。

 

「耳で?」

 

「……分かりません。でも、呼ばれている気がして」

 

それは、彼女が望んでいる言葉だったのかもしれない。

それでも、イェルグは遮らなかった。

 

「行こうとは、思った?」

 

母親は、少しだけ、沈黙した。

 

「……行ったら、会える気がして」

 

父親が、強く彼女の腕を掴んだ。

 

「行くな」

 

声が荒れていた。

 

湖は、そのやり取りを、何も言わずに映していた。

水面に映る二人の顔は、歪んでいた。

 

その夜、ルーネは眠れなかった。

宿の窓から、湖の方向を見る。

 

暗闇の中に、水があるはずなのに、見えない。

音も、ない。

 

――本当に、何も聞こえない。

 

それが、正しいのか、

それとも、自分が何かを欠いているのか。

 

分からないまま、夜が更ける。

 

翌朝、イェルグは湖の縁で、立ち止まった。

地面に、わずかな乱れがある。

 

足跡ではない。

だが、水際の草が、同じ方向に倒れている。

 

「……近づいたな」

 

誰かが、昨夜、湖に寄った。

引きずられた痕跡はない。

だが、呼ばれて、立ち止まった痕だけが残っている。

 

ルーネは、その場所を見つめた。

胸の奥が、少しだけ、冷える。

 

――聞こえなかった。

だから、ここに立たなかった。

 

それは、救いなのか。

それとも、ただの偶然なのか。

 

湖は、答えない。

ただ、静かに、音を溜めている。

 

次に、誰かが聞くために。

 

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